満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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への銃器の捜索と衣料品の一時借用と称し、オムツ・茶碗まで一物もあまさず屋外へ集積し、夜陰に乗じて服装を変え、暴徒の仕業と見せかけ略奪を開始(十月三十日まで)。二十八日○この日の夜中、伊南郷開拓団は他の開拓団に告げずに天草開拓団を出て、ジャラントンへ移動。二十九日○伊南郷開拓団が居なくなったことを知り、富貴原郷開拓団も、この日天草を出ると決める。しかし、その直前に匪賊の大襲撃に遭う(昼間)。逃げようとしていた富貴原の人たちは、校舎を匪賊に囲まれ、匪賊に追われるようにして校庭に出て、脱穀場に追い込まれる。匪賊の略奪・暴行に対し皆で庇いあうが、下澤すゑさん等が亡くなる。また、岡治子さんも銃で撃たれ、約一週間後(十一月六日)に亡くなる。三十日○二十四日から三十日までの襲撃で、負傷者三人を出す。十一月三日○各団とも無一文になったところで、団長等入獄者が解放される。その後も十二月に入るまで、度々襲撃・略奪に遭う。○この頃、小川巌・作子夫妻の鯇長男一郎さん(一歳)が栄養失調で亡くなる。また、この頃、岡正・石子夫妻の長男、清氏も亡くなる。十二月上旬○正規の八路軍(共産党)が到着すると、劉某一味は何処かへ逃走。これにより治安は良くなるも、厳しい寒さの中では越冬の見通し立たず。○この頃、道徳会阿栄支部(会長王某)と証する仏教団体が主体となり、日本人の救護運動の声が上がると、正規八路軍により日本人を保護せよの声が高まり、阿栄旗日本人会を中心として、救援活動に乗り出す。十五日○生き残るため、団員の総意により一時分散を決定。○宮下勝彦氏、宮下園枝氏・勝美氏、伊澤清一氏、向山松子氏・ひろ子氏、向山行子氏、福田ちかゑ氏・睦子氏・国策氏・順応氏は、天草開拓団(富貴原郷開拓団)を離れ、蒙古人部落へ入る。その後、伊澤清一氏と宮下勝彦氏は、蒙古軍に勧誘され、入隊させられる。○団員はぽつりぽつりと天草を出るも、住む場所は各々で探さねばならず、小さな子供を連れている人は探すのに苦労し、次第に奥地へ入る。○ロスサントンの屯長宅には植田福弥氏、鈴木暦造氏・ミハル氏・正男氏・今朝雄氏、小川作子氏の六人が、また近くの集会所には桐原国弘氏、西川哲二氏、松沢良子氏・富美子氏、植田正子氏・貞子氏の六人が入り、冬を過ごす。下旬○浦野正清・しげみ夫妻は、阿栄旗亜鎮屯というところで世話になることが決まる。その二日後、三男国弘氏(一歳)が亡くなる。○岡石子氏と知野今朝一氏も現地人宅で一冬過ごす。○市川正富氏、富美子氏、麗子氏は、奥地へ行く途中の現地人の家に入る。また、市川正美氏、藤子氏、昭正氏、節美氏は、その隣村の現地人の家に入る。市川家は、その後入白の現地人の家へ。昭和二十一年一月○この頃、植田福弥・正子夫妻の長女貞子さん(一歳)と松沢政文・良子夫妻の長女富美子さん(〇歳)がハシカに罹り、十五日に富美子さんが亡くなる。貞子さんは奇跡的に回復。二月十日○ハバロフスクの収容所で小川巌氏が亡くなる。二十八日○浦野正清・しげみ夫妻の二男荘二さん(四歳)が亡くなる。三月二十七日○浦野正清・しげみ夫妻の長男晃さん(七歳)が亡くなる。○この頃、ロスサントンに居た植田さん、鈴木さん、小川さん等は、チチハルに少しでも近づくためリュウジョウハンへ行き、神谷さんがお世話になっていた現地人の家に世話になる。四月○尾崎としゑ氏が、現地人集落でお産の際に亡くなる。五月中旬○チチハル八路軍司令部・ジャラントン蒙古軍司令部の両指令顧問という浅川某が日本人会へ来て、内地引き揚げにあたっては責任を持って連絡するとの話あり。○この頃、植田さん、鈴木さん、小川さん等は、神谷さんの家を出て、チチハルの日本人会を訪ね、本田正勝氏等の家に入り、働きながら帰還命令を待つ。このうち植田正子氏は、東蒙古の軍事病院で看護婦として働くようになる(約二ヶ月)。七月中旬○内地引き揚げは三年後との情報あり。○この頃(七~八月頃)、植田正子氏等はチチハルへ。途中保科朔朗夫妻の荷車に乗せてもらいチチハルへ到着。三峯郷開拓団収容所と道を隔てた反対の丸義という元旅館に寝起きして、男も女も働きに出る。八月十日○保科朔朗氏が発疹チフスで亡くなる。


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