満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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らの人たちにより、開拓団員も日本の無条件降伏を知る。○午前五時頃、「開拓団は現場を維持せよ」という関東軍司令官の命令電報が届く。○大和部落の人たちは、今までなついていた現地人に騙され、「ソ連兵五十騎が押しかけてくるからすぐ逃げるように」と言われ裏山に避難。その間に、目ぼしい物を全て略奪される。二十日○午前六時頃、親日中国人からの情報で、二十五キロ離れた大阪・玖磨川の両開拓団は、昨夜匪賊の襲撃を受け、団員多数死傷との情報あり。○直ちに花丘部落の人たちに本部集合の指示を出し、花丘部落では、まず若者が荷物を運び、次に女性・子供を乗せて本部へ行くこととするも、すぐに付近の現地人の動きが不穏となり、銃声がしたため、全員が着の身着のままで本部部落へ避難を開始。避難完了とほぼ同時に約三百人の匪賊が花丘部落を襲撃。略奪・放火を行い、本部部落へも襲撃の構えを見せたため、旗公署及び伊南郷開拓団へ応援を依頼する。○午後二時頃、本部の重要書類を焼却。女性・子供に毒薬を配り、家財物資はそのままとして、伊南郷開拓団方面へ避難を開始。ほぼ同時に、匪賊が本部部落の略奪を開始。○花岡・本部部落の人たちが大和部落付近を通った時、大和部落の人たちは裏山へ避難していて居らず。花岡・本部部落の人たちは、裏山に避難していた大和部落の人たちを見て、初め匪賊と思ってしまうが、後に大和の人たちと判明。この頃大和部落の人たちは、裏山で全員死ぬ覚悟で青酸カリを配ったが、花岡・本部部落の人たちから伝令が行き、何とか思い止まる。その後、夕方には伊南郷開拓団へ到着し、合流。暫くして、一部の人たちが本部の様子を見に行くと、原住民が家屋に入り略奪を行っているのを目撃。伊南郷開拓団へ戻り、皆で相談をして、大和部落へ行くこととなり出発。○この日、ソ連国境付近にいた倉田三郎氏のいた部隊上空にソ連の飛行機が現れ、降伏勧告のためのビラがまかれる。部隊はこれにより降伏。二十一日○早朝救援隊と共に本部部落の倉庫を調査。何一つ残っておらず。昨夜匪賊十一名を銃殺。○旗長の命令により、二十四日に伊南郷開拓団へ集結することとなる。二十四日○再び伊南郷開拓団へ移動。着いた晩に馬や車を盗まれる。三十日○旗長の命令により、銃器弾薬を返納(武装解除)。また、警備の都合上、最も旗公署に近い天草開拓団地区に阿栄旗管内九ヶ開拓団が集まるよう言われる。○夕刻より天草開拓団への移動準備。午後九時頃に準備が整い、蒙古の警備隊に守られながら天草開拓団への移動を開始。途中本部部落前を通ると、倉庫の食料がまだ燃えていた。また、花岡部落は全て焼け野原であった。紅花架子に入ると、鎌や槍を持った大勢の匪賊に遭遇するも、蒙古の警備隊が居たため被害には遭わず。三十一日○午後五時頃、旗公署に最も近い天草開拓団地区に到着。阿栄旗管内の九ヶ開拓団、二千三百人が一箇所にて共同警備に就く。富貴原郷開拓団は学校に、伊南郷開拓団は倉庫に落ち着く。また、若者は、学校の前に半地下式の小屋を建てて警備につく。着いた晩から匪賊の襲撃に遭う。○この時、杵島開拓団?に居た唐澤衛氏(部隊から歩いて来ていた)が家族と合流。九月二日○この頃、ソ連兵が旗公署接収に来て略奪を開始。時計・万年筆等を強要して持ち去る。二十日○この日、開拓団の演芸大会が行われる。その夜、武器を持った約五百人の匪賊の大襲撃を受け、衣類・馬車等の大半を略奪される。この時、警備をしていた男性達は匪賊に捕まる。その後機会を見て逃げ出すも、知野吉太郎氏が撃たれて亡くなる。また、宮下勝彦氏等は倉庫へ避難し、一夜を過ごす。また、その他の人達は一晩中コーリャン畑に身を潜め、夜が明けるのを待つ。○この襲撃の際、蒙古兵は逃げて一人も居らず。蒙古兵が居なくなった丸腰の開拓団の人たちに対し、その後匪賊は毎日略奪に来るようになる。そのため、女性は連れて行かれることを警戒して、頭を丸坊主にして、顔に炭を塗る。○この頃、中国共産党幹部を名乗る王明貴がチチハル入場。王配下の匪賊の頭目劉某が資金寄付の強要に来る。九ヶ団で五千円を寄付しようとするが、劉某は少額として受け取らず。十月十一日○混乱の中、唐澤衛・孝子夫妻の長女千世子さんが生まれる。十九日○劉某の名で旗長を通じ、各団は財産報告書を作成して、二十三日午前十時までに団長自ら報告せよとの命令。二十三日○各団長が報告書を提出するも、内容が不審との理由で、各団長九名及び元日本兵数人が投獄・拘束される。二十四日○劉某が武装した約百五十騎の匪賊を率い、共産党の旗を立てて、各団


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