満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.84

昭和十九年二月○この頃、開拓団員に初の召集令状が来て、田中稔氏が召集される。五月一日○平松俊彦氏に召集令状が来る(団では二人目)。七月○この頃、小川いくよ氏が脳溢血で亡くなる。十二月○桐原長人氏に誘われた有賀健氏が富貴原郷開拓団へ。○この年、農業生産を高めるため、北海道の実験農家の方々が団に配属され、プラオ農法に切り替える。試験は成功し、見事な収穫があり、入植三年目で食料は自給自足の域を越え、三分の一は供出にまわした。○この年、診療所を開設。保健指導員山下静雄氏。○この年、お宮(富貴原神社)を建設昭和二十年一月○伊澤竹男氏が亡くなる。その後四月には、兄の伊澤金美氏と弟の伊澤清一氏が、竹男氏の遺骨を持って郷里に帰国。兄の金美氏はそのまま郷里に残り、弟の清一氏は六月に再び満州(富貴原)へ。三月○宮下勝彦氏が、義勇軍伊拉哈訓練所から、兄泰之氏のいる富貴原郷開拓団へ入植。四月四日○矢ヶ崎二三吉氏が亡くなる。○矢ヶ崎二三吉氏の死亡届を提出に行った山口三郎連氏が、途中で川に落ちて亡くなる。また、山口さんの馬を捕まえた現地人も、警察に問い詰められ、川に入って自殺。○この頃、唐沢衛氏等が現地召集される。十五日○泉平部落の裏山から出た野火が延焼して、泉平部落が全焼。幸いケガ人は無し。その後は近くの現地人の家を一軒借りての共同生活となる。中旬○小笠原吉治氏が農事試験場酪農指導者としての講習を受けに出発。○この頃、本部を入れると六部落となる。五月十日○この頃大召集あり。小川巌氏、向山一雄氏等に召集令状が来る。○この頃、山口三郎連氏と自殺した現地人の遺体が川から見つかる。七月上旬○農事試験場に居た小笠原吉治氏に対し、仲良くなった中国人青年張が、八月にはロシアが攻めて来て日本は負けるので、開拓団に戻れと話す。十七日○この頃大召集あり。村上団長をはじめとする十三人に召集令状が来る。中旬○中国人青年の話を聞いて心配した小笠原吉治氏が富貴原郷開拓団に戻る。この時、万が一の場合を考えて青酸カリを持ち出す。○この頃、川山屯にあった学校(一年二名、二年四名、三年一名、四年三名、五年四名、六年四名)で、音楽の練習が始まる。二十四日○二十日に召集令状を受けた人たちが、本部部落で家族と最後の別れ。花岡部落まで見送られ、二十五日チチハル入隊。八月九日○ソ連軍侵攻。十日○この頃開拓団員十一名(植田福弥氏、市川昭正氏、宮下勝彦氏等)に召集令状が来る。八月十五日にチチハル入隊とのこと。★終戦直前の様子戸数一〇五戸、人口二六五名区内現地人戸数七〇戸十五日○八月十五日入隊予定者十一名は、午後五時頃、チチハルへ向かう途中の甘南鎮付近で終戦の報を聞く。○七月二十五日にチチハルへ入隊した人たちは、夜、日本が負けたという情報を耳にする。十六日○八月十五日入隊予定者十一名は、一時旗公署へ引き返し、兵事員に終戦の真偽を問うが、デマだろうと言われ、再びチチハルへ向かう。○七月二十五日に入隊した人たちは、全員広場に集合し、隊長から敗戦の事実を聞き武装解除。次の命令を待つ。十七日○七月二十五日に入隊した人たちは、隊長の判断で召集を解除され、それぞれの開拓団へ帰団の途につく。松沢政文氏は、方向が同じ数人で歩くも、途中で現地人の襲撃に遭い、同行者二人が亡くなる。○八月十五日入隊予定者十一名は、この日の夕方チチハル付近に到着したところ、部隊は既に解散しており、ソ連軍侵攻は間近と言われたため、現地人に変装して帰団の途につく。十八日○松沢政文氏は、日本人狩りに引っかかり警察へ。その後収容所へ送られる。○八月十五日入隊予定者のうち、帰団途中でトラックに乗ることが出来た人たち(宮下勝彦氏等)が帰団。○この頃、泉平部落の人たちは大和部落へ避難。伊藤與一氏と西川哲二氏は、一たん避難した後、泉平部落へ野菜を取りに行き、その帰りに匪賊の襲撃を受け、伊藤氏は大怪我を負う。十九日○午前三時頃、八月十五日入隊予定者十一名のうち健脚者が帰団。これ


<< | < | > | >>