満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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○この頃、山口ちひゑ氏が亡くなる。二十日○チチハルの日僑送出本部から、日本人引き揚げの命令あり。第一回は八月二十七日、第二回は九月六日に、ナチトンの旗公署に集結・出発とのこと。二十七日頃○この頃には、中国人も終戦当時とはうって変って別れを惜しみ、親切にしてくれた。第一次帰国隊の現地出発に際しては、最初から親日的だった旗長や旗公署職員をはじめ、大勢の人たちが、二回にわたって送別会を開き、夜遅くまで最後の歓談をした。また、出発当日は、小学校の児童まで出て見送った。○この頃、桐原しなの氏が田中初子氏を一緒に帰ろうと誘うも、現地人と結婚した田中初子氏は現地残留を宣言。○この頃、宮下勝彦氏、宮下園枝氏・勝美氏、伊澤清一氏、向山松子氏・ひろ子氏、向山行子氏・里子氏(二十一年三月生まれ)、福田ちかゑ氏・睦子氏・国策氏・順応氏は、ジャラントンの日本人収容所へ。そこで知野今朝一氏に会う。また、岡石子氏に帰国するよう説得するも、残留すると言われる。九月六日頃○第二次帰国隊が旗公署に集合・出発。○この頃、宮下勝彦氏、宮下園枝氏・勝美氏、伊澤清一氏、向山松子氏・ひろ子氏、向山行子氏・里子氏、福田ちかゑ氏・睦子氏・国策氏・順応氏、知野今朝一氏の十三名はチチハルへ到着。そこで安藤としゑ氏・國男氏・待男氏と会う。○この頃、鈴木暦造氏が発疹チフスで亡くなる(チチハル)。十日○一部先発隊がチチハル出発。十二日○引き揚げのためチチハルを出発。安藤としゑ氏は神経痛のため歩けず、タンカに乗せて出発。○新京に着くと、収容所で安藤平一郎氏と尾崎藤市氏が奥さん等の帰りを待っており、安藤さんは家族と合流。尾崎さんは、そこで奥さんが亡くなったことを知る。○この頃、帰国隊は新京を出発し、錦州へ。その後コロ島へ。十月上旬○コロ島から引揚船に乗って帰国。上陸直前、一部の船内では伝染病が発生し、上陸延期となる。この間、亡くなった向山里子氏(〇歳)を海に葬る。○上陸後は、進駐兵によってDDTを頭からかけられる。十五日○市川富美子氏、麗子氏等は、ようやく現地人に返してもらい、帰国のためナチトンを立つ。中旬以降○この頃、引揚者が郷里へ帰郷。昭和二十二年○この年、シベリヤからの帰国者が帰郷しはじめる。昭和三十年頃○村上顕氏が中心となり、団の同志会を結成。箕輪国民学校にて集団結婚式(昭和18年2月)〔倉田作子氏提供〕川山屯にて(昭和17年秋)〔向山ひろ子氏提供〕


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