満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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第四章富貴原郷開拓団の経過(主な出来事)戦後六十八年が経過した今、富貴原郷開拓団の正確な記録を把握することは大変困難になってきています。ここでは、残された手記や聞き取り調査を中心に、今の段階で考えられる富貴原郷開拓団の大まかな経過をまとめてみました。しかしながら、それぞれの史料や記憶には相違点や不明確な点も多く、また、その真偽を確認する事も困難であるため、必ずしも正確でない可能性もありますので、ご了承下さい。昭和十六年四月○この頃、上伊那郡の町村長会が、中箕輪村・高遠町・赤穂町の三か町村を中心として、三つの分郷開拓計画を立てる。北部十ヶ町村は中箕輪村役場に送出本部を設け、本部長に中箕輪村長清水東洋雄氏、事務局長に助役市川八十吉氏を選出。七月○この頃「信濃毎日新聞」を通じて、先遣隊員の募集宣伝が行われる。また、各町村では推進委員会を設置し、送出説明会を開催したり、目ぼしい人の戸別訪問を進める等して、勧誘を行う。九月○この頃、団長及び幹部の人選が決定。団長には朝日村の村上顕、経理指導員に中沢村の林英生、警備指導員に伊那町の田中二一、農事指導員に伊那町の北沢正吉の各氏が就任。なお、この時点で、本部長は新任村長大月茂氏に変更。十月一日○基幹先遣隊員が訓練のため八ヶ岳修練農場に入所。ここでは上伊那郡下の三団が、各団五人ずつ計十五人で上伊那班を編成し、高遠町出身の沢上定男氏を班長として、内原の義勇軍方式によって訓練を行う。十一月中下旬○成績優秀により、他の団より二日早く訓練を終了。いったん帰郷して準備を整え、十一月半ば過ぎに祈願壮行会があり、郡・町村の代表者の見送りを受けて郷里を出発。新潟港から羅津・牡丹江を経由。二十三日○基幹先遣隊が佳木斯のすぐ手前の第一次弥栄村の現地訓練所に入所。昭和十七年一月○この頃、幹部が内地訓練を終え、ハルピンの開拓指導員訓練所に入所。三月上旬○団長が一人で弥栄を訪問。下旬○入植地決定の正式発表あり。「入植決定せり、入植日は四月十日、ハルピンに集合せよ。」との電報を受ける。四月十日○予定通り現地入植。入植式を行う。幹部・団員あわせてたった十人の入植であったが、満州拓殖公社の設営が行き届いていて、入植した時には、すでに中国人の家屋を買収して、宿舎も倉庫も間に合っていた。また、農地も、それまで中国人が作っていた熟地を買い上げてあったため、凍土がゆるみ出すとすぐに農耕が出来た。農地を取り上げられた中国人はわずかではあったが、他地区に代替地を見つけて移動して行った。六月○この頃、位置を選定し、二か所で部落の建設をはじめる。七月○この頃、倉田三郎氏が補充先遣隊員として渡満・入植。八月十八日○団員送出がはかどらない埋め合わせとして、第一次勤労奉仕隊十数人が富貴原郷開拓団を訪れる。この勤労奉仕隊には向山保氏も参加。九月○この頃、大麦・小麦等の収穫が終ると、第一次勤労奉仕隊が帰国。十月○この頃、本隊員が入り始める。多くの人が、新潟から船で羅津に上陸し、そこから鉄道でジャラントンまで行くルート。十一月下旬○家族招致が始まり、先遣隊の人たちは家族招致のため、約一ヶ月半の予定で帰国。○この頃、向山一雄氏が途満。昭和十八年二月八日○箕輪国民学校で二組の合同結婚式が行われる(小川巌・作子氏、山口三郎連・国子氏)○この頃、中箕輪村役場で三組の合同結婚式が行われる(宮下泰之・園枝氏、山崎千十・俊子氏、小池豊平・賀久美氏)○この頃、先遣隊の帰団を待って、倉田三郎氏、向山一雄氏等が家族招致のために帰国。


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