満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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―どこの人ですか?松沢:久保。兄弟でいたんだけえど、あの人も何かお手伝いに来て、へえ帰れなくなっちゃったんだぜ。―結局帰って来なかったんですか?松沢:帰って来てるけど、東京に居るだかどうか知らない。―ああ、矢ケ崎喜代子さん?勇さん?松沢:妹(征矢時子=矢ケ崎喜代子さんの妹)が居たわけ、久保の人で。結婚しなんでた、その人。何ちゅう名前だったかねえ、その人、矢ケ崎…。矢ケ崎じゃないわ、矢ケ崎さん(喜代子さん)は結婚したもんで矢ケ崎さんなんだけど、久保の何ちゅう苗字だったっけねえ。宮下:何しろへえ、大変だった。―宮下さん達は帰還命令が出てから、弟さん達が教えてくれて、ほいで何処へ行ったんですか?宮下:わし達だって結局は、あのう、うーんナチトンにおりて、ジャラン、あそこじゃねえのかなあ、新京行って…。―松沢さんたちとはどっかで一緒になったんですか?宮下:どっかで一緒になったんだよね。何しろまあ、(勝彦さんたちは)兵隊に一応なってたもんでね。兵隊なれなれって…。お陰で私達は帰って来ることができた。宮下:何しろまあ、行けない所へ行って来たでいいのえ、フフフ…。家のおじいさんはねえ、戦地っきりいた人だもんで、ね。南方からそこらじゅう歩いた人だもんで。何しろ、まあいいのね、しょうがねえ、生きて帰ってきたで。―一番ひどかったのはどこかねえ?終戦後一番大変だったのは?天草?宮下:天草の、あの開拓じゃあ、でかい匪賊だったもんでまあ大変だったのね。それで来る道が何しろさんざかかって来た。―病気になったのは帰り?宮下:帰り。―満州の現地の村に居るうちは良かった?宮下:ああ、全然病気にならなんだもんで。勝っちゃたちが兵隊になってたもんでわし達帰ってこれたけえど、ね。ほいだけど、あの衆が知らなんでたらわし達生きちゃあ帰ってこれんと思うよ。ね、いつにか死んでるわ。ほいてね、わしの旦那は、あの召集がきて、だけど兵隊にさんざ行ってる人だもんで、シベリヤへすぐ連れて行かれちゃったの、ね。その時に、あの向山さんの兄さんの方の保さん、あの人が、ちょうどシベリヤに行く時にあの人もシベリヤに引っ張られて行っちゃったって。ほいて、向こうの汽車を見たらちゃんと一緒になったって、目が。ほいだもんで、何にもあの衆は素人の人だもんで、兵隊も。ほいだもんでね、いろいろのものを持ってないじゃん。うちのおじいさんたちはそういうことは経験してるもんで。リュックサックへ全部食べるもの、缶詰から何から背負ってたの。それで保さんに、これを見せるとみんなにとられるで早く食べろ食べろっつって食べさせたって。―保さんはでも向こうで亡くなってますね。宮下:家の衆はびっくりしてたわ、帰ってきたら。もう死んでるこんだと思ったてたでねえ。ちょうど家へ来たらわし、十月…、田畑に十月のお祭りがあって、そして地下足袋のような、靴のような地下足袋なのかい、それを履いて、帯芯を、帯のがあたの無い帯芯で負ぶってきて、ね。ほいておじいさんの生まれた家へは先寄らなんで、そっちのおじいさんが育った家行って、先顔出したらびっくりして喜んであわててとんできたけど。そいで五軒ばか来ると、門屋つって門のあるでっかい家があってね、それに組の衆がさつまいも掘って、ちょうど配給するとこと、分けるところだったの。みんなワンワンワンワン泣いたけえど、みんな。だけどわしはその小路をずうっと東へ入ってった生まれた家だもんで、生まれた家のお母さんもびっくりしつら、へえ思ってたもんで、うん。―まあ、でもご家族は喜んだでしょう。宮下:そうそう。―向こうにいる間は勝美さん一人で、帰って来てから女の子が二人生まれたんですね。松沢:いいなあ、まめに帰って来たもんで、わし羨ましいよ。わし亡くしちゃったもんで。―年は一緒ですか?宮下:勝美と一緒だでね。―松沢さんの娘さんはどこで亡くなられたんですか?松沢:屯長の家の所。―満人のところ(家)ですか?松沢:ええ。―ハシカが流行ってたと言ってましたね。その村は流行ってたんですね。宮下:そう。それだもんで、ね。―植田さん家の娘さんは…。松沢:貞子さん。―やっぱり罹ったけれど(治った)…。宮下:そう、年がちょっと上だったもんで(治った)。―上だったのでちょっと強かった?松沢:上だし、おいさん(植田福弥氏)がついてたから。わしだって世話になったんだけどねえ、うんと世話になった。


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