満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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―亡くなったのをずっと背負ってたけど…。宮下:背負ってた。背負ってたけえど、わしもへえ死んでたのを知ってたけえど、一人で置いてけんでつって、船に乗ってから流した。松沢:なかなか船が上陸しないもんで。そこに日本が見えるんだけど、なかなか降ろしてくれない。―(赤ちゃんは)向山里子さん、女の子ね、保さんの娘さんていうことですよね?宮下:そうそうそう。生まれたばかでね。―昭和二十一年三月の生まれだそうですね。なので生まれて半年。宮下:背中に負ぶって、へえ亡くなってたけえどね。―生まれたのはじゃあ蒙古の村で生まれたってことですか?宮下:そういうことだと思うよ。―他には誰と一緒だったんですか?宮下:向山一雄さんの奥さん(松子さん)とわしと、保さんの奥さん(行子さん)。松沢:ほいであそこはねえ、ハシカが無かったもんでね、良かったぜ。宮下:そう。―蒙古は無かった?宮下:ハシカが無かったもんで、わし達は。この衆の所は、満人のところはハシカになっちゃったんだよ。―(二人の居たところは)全然離れてたんですか?宮下:離れてた離れてた。松沢:蒙古と全然違う。―宮下さん達は蒙古人?松沢さん達は満州人?松沢:満州。宮下:ほいでしょうがねえで、苦力をしてて、仕事をみんなで一緒にしてたけえど、俺達は仕事が無くなるじゃん、寒い時は、(勝彦さん達は)兵隊に出るっつってね…。―働くために…。宮下:兵隊になったのよ、そのお陰で、わし達が内地へ帰れるっつうことがわかったもんで。姉さん姉さん、みんながね、帰れるようになったよっつってジャラントンから来たよ。―それは何時ですか?八月くらい?もう夏になってからですか?宮下:そうだね。―じゃあもうずうっと蒙古のところに居て、引揚命令が出てから弟さんたちが知らせてくれたんですか?宮下:そう、命令が出てからとんできてくれた。―松沢さんの方はどうやって帰れることを知ったんですか?松沢:ねえあの、本当に山の中に居たもんで、わし達は、もの凄く。そいでね、こんな所にいると日本に帰れる命令が来るかわからないから、ちっとでも町の方へ出てちゅうことで、出たんだよ。出てね、ほいでその天草のね、あのう亡くなった衆の墓地へね、あのお参りに行くかっちゅってね、寄ったわけそこへ。ほいだけえどねえ、男の衆がね、俺達が先見てくるでみんなはここに居ろっつって、あの(待って)いたの。そしたらあの見てきてね、その向こうでねえ、来ちゃいけないちゅうんだよ。来ちゃいけないちゅうもんで、男の衆が来るのを待ってたの。そしたらね、もうそれこそ犬だか狼だか知らんけえどねえ、掘って、ほいて衣類をね、着てたものをみんな脱いでね、剥いでね持ってっちゃったらしいいんだよ、中国人が。満人が。宮下:ああいう衆は何しろ着るものが無かった。―天草に居るときに亡くなった人を埋【い】けた墓地を、墓を暴いて服を持ってったり、暴いた後に埋め戻さないもんで、犬が来てかじったりしてるっていう?宮下:そうそうそう。掘っちゃうもんでね。松沢:そうしてそれからね、あのう、女の衆がこんなとこ見るとえらいことだでへえいいでっちゅって、手をあわせてお参りだけすればいいちゅうことで遠くの方でお参りしたの。ほいてずうっと今度来て、ナチトンちゅう所ね、まで来てさあ、ほいでそこでね家を借りて、植田さんはねえ、あのう看護婦さんだもんで、昔看護婦さんをしてたの、内海さんの。それでねえ、あのナチトンの病院のねえ、看護婦さんに頼まれたの。ほいで植田さんのにいさん(ご主人)はどっかへ働きへ行ってて、わしが貞ちゃ(植田貞子氏)をお子守してたんだよ。その時は大勢いたよ、そこに。大勢いた。山崎さんたちも居たしね、そこに。ほいてそこの、今のそのおいさんが…。白鳥さん。その衆も居たよ。そこに居たに。―じゃあ、引揚命令が出る前に出てきた衆が結構いっぱい居たっていうことですか?松沢:どういう衆か忘れちゃったけど、家を借りてねえ。―ナチトンに居たのは何【い】時【つ】ごろですか、何月頃?松沢:八月頃まで居たと思うよ。―八月頃まで?松沢:八月か九月頃まで居たと思うよ。―何月頃出てきて?もう春になったらじき?松沢:うん、もう春になったら出てきたの。―ナチトンで引揚命令を聞きましたか?松沢:そこで分かったわけ、ナチトンで。ほいで矢ケ崎さん?その人も一緒だった。妹さんも一緒だんたんだよ。何ちゅう名前だったねえ、妹さんは?


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