満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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鈴木:蒙古人はそういうことはなかった。―植田さんか倉田さんの手記にも、女の人は働かなくても食べさせてくれたとあります。鈴木:男は行って働いた。小さくても行った。―入った所(家)によっては残留孤児になったり、現地人の妻になったりして残る人がいますが、ああいう人は、蒙古ではなくて中国ですか?鈴木:中国人が多いと思う。―鈴木さんや安藤さんは蒙古ですか?鈴木:富貴原の人達はそういうことは無かった。―田中初子さんという人は、現地の人の妻になったので残ったと書いてある…。鈴木:田中初子さんは代用教員みたいで勉強を教えてくれた。―先生が四人いたって書いてありますが。桐原さんと、田中さん…?鈴木:桐原さんの弟さんも。―弟さんもそうだったんですか。鈴木:もう一人誰だったかな?―知野吉太郎さんでは…。安藤・鈴木:えー知らないな。―白鳥さんはその人を書いてあります。男の子は田中先生を覚えているかもしれないですね。鈴木:そう。田中先生と桐原先生は知っている。田中初子さんは知ってる。―田中さんは現地人の妻になったので残った。誰かの手記に書いてあったんですが、一緒に戻ろうよと言ったが「残ります」といったようだ。だいぶ奥の村の家に入っていたようです。帰還命令が出たときに声をかけて一緒に帰ろうと言ったようです。鈴木:帰還命令が出たとき親達は方々へ連絡したと思うけどね。―中には子供を帰してくれないところもあったようです。働き手として。女の人達はその家に入るまでは丸坊主にして男の人の格好をしていたと。それは本当なんですか?安藤:そうしなければ連れて行かれる。ソ連が性質が悪かった。鈴木:収容所へみんなが集まったときソ連が来た。―それはチチハルかどこかですか?鈴木:いや。天草に居るときソ連軍がきた。一回か二度。その時女の衆がみんな丸坊主にした。―ソ連の人が物取りに来たということも書いてありますね。鈴木:腕時計とか眼鏡とか盗りに来たといっていた。―帰って来たとき、博多とか佐世保に着いて電車で帰って来ましたかね?鈴木:うん。―松島まで帰って来たという事ですかね。安藤:そういうことずらいな。―帰って来たときの感想は?安藤:あまり覚えていないが、西校の小学校の入学式はしなんだでね。途中から入ったで。一年・二年。―十月に帰ってきて途中から入ったという事ですね?鈴木:俺もそうだ。途中から入った。安藤:二年へ途中から入ったのかな?―白い御飯が食べられて、それが美味しかったという話をする人もいましたが…。鈴木:俺は木下の藤沢巻雄さんの家に厄介になった。―藤沢巻雄さんですか?鈴木:あの家にね。弟が先に帰って来て、俺と三人があの家にね。行くところがないもんでね。おばっ子だったもんでね。あの家のおじい様って言う人がいい人だったもんで、そこにずうっと学校出るまでね。―それで今も木下に?鈴木:今はね。それであそこに家を建てて。―鈴木さんにとって満州とはなんだったんですか?鈴木:最初はどえれえいいところだと思ったが、まあ、小さかったもんで。小学生だもんで、汽車に乗って船に乗って行けるって頭があったきりで。みんなに学校で歓迎会ってゆうか、駅まで来て万歳してもらってね。同級生がね。―意気揚々と?鈴木:そう。意気揚々と。兵隊の衆はみんな駅で万歳して送ってくれたじゃんか。そんな気分があったきりで。まあ、最初に着いたときは広いなーと思ったけどね。―終戦まではいいところだったんですかね?鈴木:そうね。食べる物は豊富だったし。―倉田さんかな?内地にいたときよりも食べる物はあったと言っている。鈴木:もっと大きければよかったが、十一・二歳じゃあ何が何だかわからない。七平成二十一年九月十五日白鳥洋治氏(箕輪町福与)※一部編集―白鳥さんの場合は、終戦の時に十四歳位ですかね?白鳥:今の中学二年生。たまたま鈴木さんや安藤さんはわしより先に行ってたもんで。終戦になる前のことはね、その衆のほうが良く知ってるだもんで。わしは(二十年の)六月行って八月終戦だもんでね。だもんで、終戦前の状態はあの衆のほうが知ってると思うもんで。―昭和二十年の六月に渡った時にどなたか一緒に行った方は覚えていませんか?


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