満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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な。―幹部の人は何回もこちらに来ているわけですね?安藤:俺は何回かわからないが、一回は親父と来た。―そうなると安藤さんの十九年というのは二回目だと思います。色々資料がありすぎてどれが正しいのか解らないのですが…。鈴木:十九年のときは、勧誘に来たんだな。―それで戻って行ったとき(※再渡満)が十九年の四月だか…。鈴木:俺より先に行っていたでね。親父様は郵便配達をしていたから、安藤さんも知っていたんだ。安藤:郵便屋さんの鈴木さんて言っていた。―向こうへ行ってもですか。安藤:そう。―一番印象に残っていることって何ですかね。いろんなことがあると思いますが。鈴木:子供だったから、皆で魚釣りに行ったことかな。暑い盛りに。安藤:針金の曲がったようなものでも釣れたでね。鈴木:馬鹿みたいに釣れたから。―楽しかった思い出はありますか?安藤:広いところだったでね。鈴木:広いところを馬に乗って飛んで行ったでね。―こっちに居たときよりも食べ物とかはどうでしたか?採れたんですか?鈴木:採れた。―寒くて本当に出来るのかなって思いますが?鈴木:そりゃ、大豆だって五町歩から七町歩くらい作ったでね。きびを三町歩くらい。なにしろ畑だけだが十五町歩貰ってやっていた。―一人で十五町歩ですか。鈴木:その為には向こうの人達を使わなければ。草取りとかそういうことはできないから…。―敗戦までは素直に十二歳の子供の言う事でも聞いたわけですか?鈴木:聞いた。向こうの人たちは着る物がほしかったから、一年に一度服を配給してやると一年中来てくれた。そしていくらか金をやった。―着る物が欲しいんですか?鈴木:着たきりだった。日本で言う雇い人は、布団を持って春になると来て、一年中働いて。着る物は着たきりだから下着とかをくれたりすると喜んだ。―寒いところなのに着るものがなかったんですね。鈴木:厚い綿の入った防寒具を着ているから。―かいまきみたいなものですか?安藤:そうそう。鈴木:その上に、羊を猟ってなめして、それを服の裏っ側につけていたから冬は暖かかった。―着るものをやれば一年間来てくれた?鈴木:うちはそうだった。他の人はわからないが。うちの親父様は信用があって割合来てくれたらしい。―それで終戦後は着ているものを盗られた?鈴木:着ているものは盗らないけれど、家にあるものはみんな盗られた。―この(手記の)中に、女性なんですが、その場で盗られて、逃げる途中だったので又村に戻って何か着てまた逃げたとあります。安藤:大きな荷物を持っていると撃たれるからと、なるべく持たなかった。鈴木:なにしろ向こうの人は物が無かったからね。―物があればもう少し違ったかもしれないですね。鈴木:そう。まあ、日本人がいじめといたで。安藤:ソ連が来たときは、時計が欲しくて、三つも四つも腕につけていた。時計の見方が知らないけれど。鈴木:眼鏡だってみんな持って行った。一度かけて見て目がくらくらすると、これは駄目だと返してくれた。―匪賊と書いてあるんですが、いろんな人がいるんですよね?鈴木:匪賊って言うのは中国人の一般の農民だね。―そのことを匪賊というんですか。鈴木:そうそう。馬賊というのは、軍隊などを襲撃して鉄砲などを盗った。―騎馬兵ですか?鈴木:そうそう。騎馬兵ね。共産党は馬賊。国民党は普通。安藤:赤い旗を立てて、馬で、でーっととんできた。鈴木:そう。それが共産党。「赤い旗がきたぞー」って逃げた。―どれが来ても結局逃げなくてはいけないですよね。鈴木:そうなんだよ。三月くらいはね。そして蒙古に別れてからは全然そういうことはなくなった。安藤:ロウモズっていったのはソ連兵のことか?鈴木:ソ連兵っていっても、あれは囚人みたいな人を第一線に出したんだって。日本で言うと監獄にいる人を第一線に出したそうだ。だから、めがねでも時計でもいくつでも盗った。日本刀を三つも四つもぶら下げていた。―蒙古だけは一応よかった?


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