満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.56

鈴木:帰って来て聞いたら、四十日くらい船の中に居たといっていた。病人が出て足止めにあったようだ。―鈴木さんとお母さんは一緒だったんですね。お父さんはチチハルで…。鈴木:亡くなった。―安藤さんは十月十四日に帰ってますね。弟さんは?安藤:こっちに帰ってから亡くなった。―向こうに行って印象に残っていることはありますか?鈴木:山の花はきれいだったね。安藤:俺はアルン川に魚釣りに行ったことがある。ヤナギの枝で釣った。―向こうの人たちは魚は食べないんですか?鈴木:そうだな。なにしろ釣れた。安藤:こんなところまで行かなかったんじゃないかな。鈴木:富貴原に居るときは周りは中国人だった。蒙古は天草へ出てきてから一帯が蒙古だった。小高い山になっていた。山の裾に村を作った。安藤:広かった。花岡部落が一番広かった。鈴木:本部も広かった。泉平がちょっと高いところだった。―山口さんが亡くなったという話は二十年ですかね。矢ケ崎さんの死亡届を出しに行ったとあるが…。安藤:何しろ馬から落ちて馬だけ帰って来た。鈴木:乗るものが無いから馬に乗って連絡に行った。十いくつで馬に乗った。本部部落に居たので花岡に連絡に行って来いと言われ馬で行った。―花岡までどの位ありました?鈴木:結構あった。松島から伊那市くらいかな。―それぞれの部落もそのくらい離れていましたか?鈴木:そうそう。みんなそのくらい離れていた。―日本の感覚ですと狭いところに隣接して村があるんですが、そうではないんですね。安藤:家がきちんと並んでいた。鈴木:向こうの人は頭がいい。火を無駄にしない。ごはんを炊いても何してもみんな部屋が暖まるようにしてあった。冬は外は零下だけど家の中は暖かだった。安藤:鹿が飛んでいたな。野生の。―それを獲って食べたりもしたんですか?安藤:ああ食べた。警備用の鉄砲が本部にあってそれで撃った。―その部落に武器があった頃は強かった?鈴木:そりゃあ日本が勝ってたもんでね。十二、三歳で中国人を使ってたでね。負けりゃあその逆だでね。―学校へは行かなかったんですか?鈴木:行ったり、行かなかったり。安藤:桐原先生がいたな。鈴木:一年から高等二年まで一緒だから自分で勉強しなくてはいけなかった。家へ帰ってくればランプ生活で、眠いし…。早い入植だから後から来る人達のためにグランドを作ったり鉄棒を作ったり、学校へ行っても少し勉強しただけで、後からの人のために整備をしていた。一番先の人達は苦労をしてきたのね。まさか負けるとは思わないから、ずうっといるつもりだったから、学校だって良くしておかなければね。安藤:学校まで歩いて通ったね。どのくらいあったか…。―本部から通えたってことですか?安藤:そう。歩いた。鈴木:遠くの人は馬で送って来た。本部からは近かった。四キロか五キロくらいかな。―終戦間際には二十人くらいいましたか?鈴木:ああ居た。安藤:鈴木さんたちの後を付いて歩いた。―市川富美子さんて覚えていますか?安藤:白鳥になっている、羽広の?鈴木:女の人は結構通ったが男は力仕事をしていた。―鈴木さんの年だと国民学校の六年ですか?鈴木:そう。向こうでね。ここで四年の時に行った。―その上に青年学校があった?鈴木:山川さんもいた。―行くには縁故とか親戚関係の人が多いですよね。ご親戚で誰か行った人は居ますか?安藤:親戚ではないが、一度帰って来たときに向山行子さんとかを連れて行った。―現地に行って、日本に一度帰ってきて、合同結婚式をしてお嫁さんを連れて向こうへ行ったっていう人が居た?鈴木:向山一雄さんがそうではないかな。一雄さんも安藤さんが連れて行ったね。安藤:そうそう。鈴木:幾人か居るね。安藤:お袋はむこうに一人で居て、俺と親父は一緒に来た。鈴木:俺の親父も来た。冬来たのかな。―先遣隊の人が十七年の四月に入植して、その年の暮れから十八年の一・二月くらいに帰ってきて、自分達がまず結婚して、(開拓団に)戻って交代で他の人が来た。鈴木:それなら、岡さんもそうだな。結婚して行って、奥さんを置いて勧誘に来たんだ


<< | < | > | >>