満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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鈴木:戻ってきた。一緒にね。途中から戻ってきて終戦後一緒に逃げた。―あや子さんは蒙古にいるときに病気で?鈴木:そう。病気でね。―六月三日って書いてあります。鈴木:その位だった。書いてあったっていうから思い出すがそうでないと忘れている。なるべく話をしないようにしてきた。―植田さんの奥さんの手記ですが、暖かくなってナチトンに出た。ナチトンを出てリュウハンジャンという村で看護婦として働いていた。二ヶ月ぐらいしてからチチハルに出たと書いてある。そこで保科さんに会った。三峯郷開拓団収容所と道を隔てて反対側の元旅館跡に寝起きをしていた。それはだいたいいいですかね。鈴木:そうだね。―なにしろ病気がえらかったと?鈴木:そう。発疹チフスがね。それで亡くなる人が多かった。起きてみると亡くなっていた。―チフスってどういう症状になるんですか?鈴木:どういうといってもわからないが、虱がすごかった。縫い目にびっしりいた。一年も二年もお湯に入らないし着たきりだから。安藤:振れば落ちるくらいいた。鈴木:亡くなった人にいた虫は生きた人のところに来た。今みたいに別ではないから。みんな雑魚寝だから。子供とか弱い人はみんなかかった。ほんとうにあれだけ大きい集落にいて毎日亡くなっていた。―それは蒙古人のところに入っていたときですか?鈴木:いや。蒙古人のところに居る時ではない。チチハルに出てから。―チチハルに出てから病気で亡くなる人が多かったということですか?鈴木:そうだね。―倉田作子さんの手記の中で、三月までそこにいて、良くなってからちょっとずつ近づこうと、植田さん、鈴木さん一家と共に屯長さんの家を出て、一ヶ月位リュウジャンハンの神谷さんの満人の家に厄介になり、チチハルに出る機会を待って、五月頃に神谷さんの家をこっそりぬけだし、野宿しながらチチハルに着いたと書いてある。チチハルでは旅館跡に住んでいたとありますので五月くらいにはチチハルに出てきていたんですかね?鈴木:そうね。出てきたんだね。―「チチハルでも発疹チフスで幾人か亡くなっていたようです」とあります。鈴木:毎日亡くなっていた。安藤:あの頃は内地の方へ少しでも近づこうと思ったり、どうせ死ぬなら少しでも近くへと思っていたと聞いた。鈴木:倉田さんたちと共に一緒にしてきたから。日本に帰るまでは。安藤:鉄道を歩いた覚えがあるよ。―それはチチハルから船に乗るために引き揚げている時のことですか?安藤:そうだね。鈴木:チチハルから俺達は屋根も何も無い車。荷物を積んだトラックのようなものの鉄道に乗った。―ずうっと鉄道で帰って来られました?鈴木:俺の記憶にあるのは八路軍と蒋介石の間に川がある。その川のところまでは八路軍の鉄道、そこから降りてどのくらいかわからないが歩いた。―境界なので歩いた?川を渡って今度は国民党になって鉄道に乗れるんですね?鈴木:そうそう。それから今度はコロ島まで来るんだ。こっちに乗ってからは待遇がよかった。全然違った。虱は消毒してくれて、きれいにしてくれた。あの川を境に違った。―宮下勝彦さんの話の中に、宮下さんと安藤さんは一緒に逃げてたが、安藤さんのお母さんが歩けなくなって皆で担いだとある。安藤:そうそう。もっこというか担架でずうっと運んでもらった。俺はその後を付いて行った。―川を渡ってから国民兵に馬にのせてもらったようですね。鈴木:俺は親父が病気になったから後に残された。私と親父とお袋とチチハルで病気になった。だから一月ほど後にチチハルを出た。先に植田さん達は出た。チチハルまでは一緒だったが、倉田さん、植田さんは、盆踊りをしてその晩から具合が悪くなった。―二十一年の八月ですか?帰還命令が出て直ぐですね。鈴木:帰還命令が出て安心したのかね。一月遅れで家に着いたのは十月だった。―安藤さんは新京(※長春)へ出て、ここでお父さんに会った。病院船で宮下勝彦さんよりも先に内地へ帰ったとありますが?安藤:そこらへんもわからないな。―鈴木さんはコロ島から乗って博多に二十一年十月十五日に上陸とあります。安藤さんは佐世保に二十一年十月十四日上陸という記録があります。鈴木:弟は先に帰って来ていた。倉田さんたちと一緒に帰って来た。出るのは遅れたが、船の中で病人が出ると降ろしてくれないので、それでなから帰りは一緒くらいになった。弟は小池豊平さんたちに連れて来てもらったと思う。安藤:「日本に帰ってもどうなっているか解らないから、こっちにいる」という人も居た。―弟さんは十月十日ぐらいに帰ってきていますね。


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