満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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安藤:俺もそれは覚えている。腹を撃たれていた。鈴木:それだけは覚えている。それだけは忘れない。そのときに大勢やられたな。―知野先生もその時ですか?男の人達は警備といって外にいた?安藤:そうだな。成年男子はそういって先に立っていた。―十月の下旬に昼間囲まれて襲われたことがあると書いてある。鈴木:忘れたな。あったのかな。―夜、大襲撃が二回あった?鈴木:弟のことは覚えている。畑に入る手前だった。―夜のときは九月十五日から二十日?鈴木:ロシアの兵隊と一緒に襲撃が来たのかな、昼間は。草の中に逃げたのは昼間だったのかな。盛ってある草の中に逃げた。―伊南の人達はもう天草を出てしまっていて、富貴原の人達も次の朝出ようと言っていたら校庭の周りを囲まれていた。そこで殺された人もいたようですが…。鈴木:あのところは大勢の部落が来たでね。もうごっちゃになっていたでね。―この調査票によると弟さんは昭和二十年の十月傘寿一日と書いてありますが、十月だと昼間のときになるんですが…。鈴木:じゃあおふくろさんのほうが合っているのかな。俺は夜だと思っていたが。―岡さんの妹さんは十月ですね。二回目の昼間ですね。鈴木:その時だ。夜だと思っていたが昼間だ。―岡さんの妹さんたちは囲まれて、外側の人から撃たれていったようです。鈴木:それじゃあ俺は逃げたのか?安藤:俺は何処で見たのかな。一緒にいたが。―皆さんの手記によると昼間ですね。なにしろ一番亡くなっている人が多かったのは十月の昼間じゃないかなと思います。下澤すえさんって知ってますか?鈴木:いたのかな?―植田さんの旦那さんか誰かが、弱い人をかばって自分が外側にいて叩かれたりしたと…。外側の人から撃たれていったようなので、内側の人はもしかして良かったかも知れないですね。そうするとお母さんの書いたのでいいですかね。鈴木:そうだね。おふくろさまのほうが知ってるわね。―多分それはご本人様が書いて申請したんだと思います。鈴木:いくらか貰うに。遺族年金をね。―そうかもしれないですね。長野県厚生協会というところで調査をしていますね。鈴木:亡くなった人だけに一時金みたいなものをくれたもんで、その時に書いて出したかもしれない。安藤:満州現地に慰問というか、お参りに行ったりしたりすることをしたから、そういうのにしたかもしれない。―なにしろ古い資料で、昭和三十一年の資料が役場の中にあって。そこに、中箕輪の人だけは残っているんです。妹のあや子さんは何時亡くなられたんですか?鈴木:次の年の五月か?―二十一年ということですか?鈴木:うーん。襲撃に遭ってもうそこには居られなくて蒙古の人の部落へ別れて、冬働きながら食べさせてもらった。引揚でチチハルに出てくるまで居た。―チチハルに出てきたのは連絡があってからですか?鈴木:そうそう。―ロスサントンの屯長さん宅に植田さんの旦那さんと小川さんと松沢さんがいた?鈴木:うちの衆もいた。―桐原さん、西川さんとかも近くに居たと。小川さんと一緒の家だったんですね?鈴木:そう。―鈴木さんたちも働かされてそれでごはんを食べさせてもらったということですか?鈴木:貰ってそこで食べた。親父さん達はいやだというので貰って来た。俺達が。(弟と)二人で働きに出た。今中国やチベットで小さい子供がひつじを追っているがちょうどあんなふうだった。終戦から立場が逆転した。綿羊やひつじを追って一日の給料を貰っていた。食べ物だけを貰って家でお袋とか小さい子供に持って来た。兄弟二人で出て行って。―それで何とか冬をしのいだということですか?鈴木:そうそう。しのいで、次の年の何月ごろか知らないけど、連絡があってね。―安藤さんは?安藤:どこへいったか覚えていない。どっかのうちへは行ったがどこかは解らない。鈴木:個別に行かなければ。―そんなに沢山蒙古人は居たんですか?鈴木:結構いた。蒙古人達は日本人に親切だった。中国人は入って来なかったから。―安藤さんもどこか別れて行ったんですよね。安藤:どっかにいたはずだね。―誰と一緒だったかわかりませんか?安藤:俺とお袋と、親父は兵隊でどっか行っていたから居なかったな。町場に出てきて一緒になった。チチハルかどっか。鈴木:平松さんと一緒だったのかな?まあ、俺は植田さんと小川さん(倉田さん)と同じ家だった。皆兵隊に行っちゃったもんでね。同じ本部部落に居たもんで一緒に連れて来てやった。―植田さんの旦那さんは(部隊から開拓団に)戻ってきたんですよね。


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