満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.51

ている、こっちは鉄砲でどんどん撃つのよ。だから逃げちゃいけない逃げちゃいけないって、逃げれば鎌で切られてしまう。だけど逃げないわけにはいかないじゃない。夢中で逃げたよ。その時に鉄砲に撃たれて大勢亡くなったの。岡さんの治子さんが亡くなった。大勢亡くなった。長江さんの娘もそこで亡くなった。おばさんもそこで怪我をしたか何かだった。―天草で襲撃があったのは何月ですか?松沢:あれはねえ、えーと十月だなえ。十月頃だと思うよ。八月が終戦でしょう。植田:八月に、それは憶えている。松沢:だから九月の終わりか?もろこしがあって焼いて食べたことがある。火を焚いて、天草で。そうしたら天草の、何とかトンジャンだか知らないが、そこの所で、夜ね、槍だか何だかこうやって…道中。おっかねえのがいっぱい来た。―それは匪賊?松沢:匪賊。多分。それで保安隊という人たちが守ってくれていた。あれは日本の兵隊だっていうじゃん?植田:あれは蒙古だかの兵隊。松沢:その衆が天草へ警護してくれた。だから良かったと思うよ。それで子供とか弱い人はタークルチャーに乗せてもらって…うんと遠いもんで歩けないじゃない。私達はまあ何とか若いし、歩いていけば…赤ちゃん背負ったって…。色々あったねえ。―ありがとうございました。松沢:ねえさんの旦那さんはとってもいい旦那さんでねえ、植田さんっていう人。本当に優しい人。私は履物がなくて、それでどこから仕入れてきたか知らないけれど、靴を。そのお陰で歩けた。そうじゃないと履物がないじゃない。お陰だった、本当に忘れもしない。世話になったよ本当に。倉田:四月までそこで世話になっていてチチハルへ出た。足で。―良い面もあったんですね花が綺麗だったとか…。植田:そうそう…。松沢:終戦前はね。植田:釣りに行って糸を垂らせばいくらでも釣れるの…。松沢:私が泉平へ行ったときに、毎晩お客だった。植田:何の?松沢:呼んでくれるの一軒一軒。十五軒だか十六軒あって、今日はこのうち、今日はこのうちでとか、皆んな呼んで、豚肉だか肉の料理でね、毎晩おじいさん(※旦那さん)と歩いた。それでこんなにでっかいヤン草一つあると、お風呂が沸くんだよ。それで当番でお風呂を沸かしては皆で村中で入るんだに。それで公民館の横のところがあって、そこで誰かどうか、皆んなで歌を歌ったり、色々な話をしたり、そういうことがとても思い出がある。楽しいこと。それは皆終戦前のことなので。皆んなが夜呼んでくれて…毎晩御馳走になった…気が合うんだよね、本当に。―一緒に行った仲間だから?松沢:助け合ったよ、皆んな。六平成二十一年七月二十八日鈴木正男氏・安藤國男氏※一部編集―質問票を元に伺わせていただきます。最初にお名前と生年月日・本籍を伺いたいんですけど、鈴木さんからお願いします。鈴木:鈴木正男昭和七年十一月二十六日、本籍は西箕輪だったが、その時はすでに箕輪町松島に出て来ていた。―安藤さんは。安藤:昭和十三年三月二十五日、箕輪町富田が本籍です。―鈴木さんたちのご家族はどうして入植されたんですか。鈴木:おばに聞いた話では、親戚の保証人になり、払いきれずにみんな片付けて満州に行ったと聞いた。安藤:昔はよくそういう話を聞いた。―鈴木さんのご家族は何年の何月にここを出られたか。鈴木:昭和十八年四月にここを出て、四月に着いた。―行ったとき何処を通って行ったか。鈴木:牡丹江を通ってシンキョウ(※新京=長春か?)に着いたと思う。―安藤さんもそうですか?安藤:俺はわからない。鈴木:安藤さんもそうだと思う。皆このコースだ。―安藤さんが行かれたのも同じ頃ですか?もっと後ですか?鈴木:安藤さんの方がもっと早い。安藤:親父の後をちょろちょろついて行った。募集みたいに勧誘に帰って来た。―引揚者調査票をみると十七年四月となっている。鈴木:安藤さんは一番最初だと思う。―それで間違いないですかね。その時行かれた家族は…。鈴木:六人。―お父さんの暦造さんにお母さんがミハルさん。鈴木さんで弟さんが今朝雄さん、光男


<< | < | > | >>