満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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松沢:(昭和)二十年の年は、二月にお産があって、四月の十五日が火事でね、一部落全焼。―泉平の火事は二十年?松沢:そう、二十年。二十年って終戦の年でしょ。二十年の四月の十五日が火事、七月二十日が召集令状。植田:そうそう。松沢:覚えてるよ、うんと切なかったから。それで八月の十五日が終戦の日だっていうけど、それが二十三日だかにやっと分った、負けたということが…。植田:そうそう。―二十三日に?植田:最後の方の召集で行って、チチハルまでは何とかして出て行ったようだけど、満人も何もみんな掌返したように…。松沢:そうそう。それから私だって実弾を撃ったでね。そういう練習をした。私と倉田さんと酒井さんと武田さん。四人いたじゃん女の人が。一軒の家を借りて…それで順に色々が…何というか、戦争が負けそうというかひどくなってきて、西川さんが実弾を撃つ練習をさせてくれた。ここが痛くて…すごいよ、ここへあてといてしっかりしなきゃ骨が折れるとか何とか言われてねえ。―どこで練習したんですか?松沢:泉平。―終戦前ですか?松沢:前だね。そういうこと(※練習)をしたに。実弾を撃った。植田:西川さんはもう兵隊に行かなかったから。松沢:(兵隊に行かないでいる人は)西川さんと小池さんと安藤さんというまだ若い息子さん(五男さん)とその三人しかいなかった。私達は火事になったので、満人の家だかどういう家か大きい家を借りて、そこで全部の衆が集団で農作業をして、それで四人の一人子持ちだけでね。その時に、終戦の夜ね、遅く、トントントントン叩く音がしてね、あれ何だろうと思ったら、こんなところにいると殺されるからすぐにタークルチャーで迎えに来たですぐに乗れと言われて、物も無いけれどね、焼けちゃったので、何いう間もない、タークルチャーに乗って大和へ来て空になったんだでね。そういう風だった。―泉平から大和に集まった?松沢:集まった。終戦になって、ここにいると危ないと迎えに来たの。―一番端だったから危なかった?植田:一番奥だった。松沢:それで来て、大和の衆に世話になった。その時にね、八月の色々の収穫が、モロコシなど収穫ができて、それで西川さんと与地の伊藤さんが、もったいないと言って、大和の衆から戴けば良かったけれど、せっかく作ったものをとりに行くといって、タークルチャーに乗って、泉平にとりに行った。畑へ。それで全部タークルチャーにいっぱい野菜を積んで、射掛けられた。満人にやられちゃった。西川さんと与地の伊藤さんという人。―一度避難して来たのに?松沢:またとりに行った、野菜を。それで鎌をここにくすげられちゃったの。―それで西川さんが亡くなってしまった?松沢:西川さんははすっこいもんで、伊藤さんはモタモタしていたので。―伊藤さんが亡くなった?松沢:伊藤さんは亡くならなかった。その時はケガをして頭から血が吹き出た。それで天草に逃げて来た時に鉄砲で撃たれて亡くなっちゃたの。―鎌でやられたうえに鉄砲で?松沢:そうそう。それでその伊藤さんは子供も亡くしたりするもんで帰って来なかった。伊藤さんの奥さん(伊藤たけ子さん)が。お寺の生まれでね。―伊藤兼義さん?松沢:その人ではない。その人は大泉の人。植田:その人はもっと早く亡くなった。―伊藤與一さん?松沢:その人。―伊藤たけ子さんは現在も中国に?松沢:残られたけれど、今は帰ってきている。―伊藤さんが亡くなられたのは天草での襲撃の時?松沢:そう。―天草の襲撃は何月ですか?松沢:天草はこういう訳。朝天草の学校の周りをぐるっと真っ黒く取り囲んでいた。桐原先生が千人いると言った。私が風邪をひいて、安藤さんというおばさんが一枚しかなかった敷布団を貸してくれ、そこに寝ていた。中村さんという子供の娘さんがお子守をしていてくれた。そうしたら桐原先生が絶対に危ないから外へ出ちゃいけないと言った。子供を預けて寝ていたら、戸を開けないで戸を倒して匪賊が入ってきて、私が寝ていたこの敷布団をチョンとして私が向こうへ飛んで行っちゃってね、布団を持って行っちゃったの。それから先生が、危ないから全部外へ出ろと言って皆んな外へ出て、私も子供をもらっておぶったり、それで何もないけれどオムツだけは大事だから風呂敷へ包んでいった。そうしたら今度は支那鎌というこんなに長い鎌を振りかざし


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