満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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に分散した。そこでクリーをしながら生活させてもらっていた。春まで。松沢:このねえさん(植田さん)は、鈴木さんという奥さんと、桐原さんのお兄さんと、西川さんと、同じ集会所のようなところで寝泊りしていた。植田:桐原先生のお兄さんという人が働いてくれていたが、その格好ったら…。松沢:年寄りの人が、おじいさんたちが働いて、私達を食わせてくれていた。倉田:屯長(トンジャン)の家にいた。松沢:にいさんたちのおかげで食わせてもらっていた。朝早く牛や何かに水をやったり餌をやったり、零下何十度の中で。正月には糸で顔を剃ってくれた。植田:お正月だからということで。松沢:それが上手だった。カミソリをあてたようだった。それでお正月だからということでお化粧してくれた。―それはだれが?松沢:屯長の娘さん。―屯長さんとは?倉田:日本でいったら村長さん。だから生活も良かったし…。松沢:食べ物はしっかりしていた。本当に世話になった。その時にねえさん(植田さん)の子供とうちの子供がハシカになってしまった。それでねえ…そこで亡くなってしまった。植田:うちの子と一年違ったから。体力の差で。松沢:(松沢さんの)娘とこのうち(植田さん)の娘と二人がかかったが、植田さんの娘さんは一つ(歳が)上だったので、体力があったのかちゃんと治った。うちの娘はそこで亡くなってしまった。一歳前だった。二月に生れて一月十五日に亡くなった。それから忘れもしないが、鈴木さんとこの兄さん(植田福弥さん)が連れて行って火葬というか焼いてくれた。(現地は)平らなところなので(火葬の)煙が見えた。本当に切なかった。―火葬には行かないで遠くでみていたんですか?松沢:そう。植田:私達はそこまでは行きはしなかった。松沢:鈴木(暦造)さんと、ここの兄さん(植田福弥さん)が供養してくれたの。―鈴木(暦造)さんは現地で亡くなられたのでは?松沢:発疹チブスで亡くなった。植田:そんなに病気になるような人じゃなかったが…。倉田:それは伝染したからだよね。―衛生状態も良くなかったからですか?松沢:衛生って…着たきりすずめでね…子供だってむごかった…本当に。まだお誕生日も来ないのに、天草で豆を盗んできて、それを炒って、(松沢さんが)口でかんで(赤ちゃんに)くれた。まだ一年も経たない頃に豆(※大豆)をくれた。どろどろに口で噛んでくれた。かわいそうに、骨と皮っきりで見られなかった。話をすれば切なくなる。本当に。だから私はそういうことは伏せてあるの、誰にも言わない。言うと切なくなる。倉田:そういうことは避けているの、話題は。松沢:もういやだ、本当にちょっと…。倉田:戦争だとかそういうところは絶対にもう見ない。松沢:私達は苦労したよ、あんなに山の中でしょ。―何キロ歩いて帰ってきたんですか?松沢:何キロかは知らないけど…。倉田:生きて帰ってきたのが不思議だよね。松沢:何しろ満州って広いのよね、それこそ地平線って、山のないところで海のようなところで、こんなにでっかい太陽が。それで九時頃まで明るいしねえ…。植田:そうだったっけねえ…。松沢:九時か十時頃まで明るいに。(太陽が)沈まない。夜が短い。終戦前まではいいところだと思った。春は色々な花が一斉に咲くし。―寒い分だけ余計に?植田:急に暖かくなるので花も咲いたり…。松沢:ちおん花(?)から梅の花だか桜の花だか知らないがどんな花でも…。植田:アンズの花も真黄に…。松沢:山といっても小高い…。植田:丘だね…。松沢:木が小さくて、何ともいえない(綺麗さ)だった。まめで帰って来れて…。子供は亡くしたけれど…子供を犠牲にしちゃったけれど…達者で帰って来れたので…いい所を見せてもらったりしたけれど…。―終戦までは綺麗でいいところだった?植田:そう、桔梗は咲いているは、シャクヤクは咲いているは…野生のね。松沢:それでノロとか…ノロって鹿のような、それが群になってとんであいって(歩いて)いた。それで狼もいたし。狼がブタを引きずっていった。こんなに大きなブタを捕っちゃった。植田:そんなことあったんだねえ。松沢:そう。私達のうちは一番端だったのでおっかなかった。狼がウオウオと鳴いて。今はどうだか知らないけれど。植田:この人(松沢さん)たちの部落だけは水があったので。泉平というところで。


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