満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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が来て話をしたが、開拓団は本当に無茶なことをしたと思う。開拓団なので開墾をすると思っていたが、そうじゃなかった。―もうできていた(開墾してあった)ということですか?その時通訳がいて区長さんが話をしていたが、その人たちは泣いていた。現地の人は、畑もとられ家もとられて…。家を建てるのには水がいる。現地人のいるところには井戸があるので…。―そのとられてしまった現地人はどうしたのですか?一つのところに集まっていた。私たちの住んでいた近くにはクリーといってそこで働く現地の人たちがうんと大勢いた。終戦になって全然外に出られなくなったが、そこにいる親方の人が私達の畑のところにきて色々(野菜などを)採って持って来てくれた。向こうの人たちは本当に悪い人たちではなかった。―追い出したのに食べ物をくれたんですね。終戦後に襲撃をしてきた人とは別ですか?それは土匪といって匪賊のような人たち。―盗賊のようなものですか?そう。八路軍も来た。八路軍も匪賊とあまり変わらなかった。襲撃で亡くなった人に着物を着せて土葬すると、夜現地の人たちが来て、掘って着物を盗って行った。―現地の人たちというのはクリーの人たちとかそういうことですか?そこにいる人たち。どういう人たちかはわからないけれど…。一番印象に残っていることは、引き揚げて来る時に、ハルピンだかどこだったか覚えていないが、ちょっと買い物に出たら、後ろから憲兵隊というかそういう人が来て、「ショウリュウゲン(小笠原)」と呼んだ。見たらクリーの親方だった人だった。八路軍に入っていた。私の娘(美智子)を可愛がっていてくれたので、美智子は寝ているといったら、顔を見に行くと言ったが、時間がないといって、お店に入ってお菓子みたいなものを買って、これを美智子にと言ってくれた。―それ以後親方と会ったことは?引き揚げて来てしまったので会ったことは無い。―そういう交流があったんですね。それだから、現地の人たちとは本当に仲良くできた。【松沢良子さん、植田正子さん、倉田作子さん、小笠原みのりさん】―現地で一番印象に残っていることは何ですか?松沢:匪賊に追われたようなことが一番印象に残っている。すごい襲撃だった。倉田:あと生活が大変だった。植田:子供をおんぶしていたし大変だった。鉄砲弾が流れてあたったような気がした。松沢:襲撃では七人だか亡くなった。―それは富貴原で襲撃された時のことですか?松沢・植田:天草に行ってから。松沢:七人ばかり亡くなり、ケガをした人も幾人かいた。天草では小学校を借りていた。天草へは富貴原から歩いて避難してきた。途中鎌をもった人たちがいておっかなかったなあ。タークルタチャーでみんな荷物をいっぱい積んで何台もで来た。―タークルチャーというのは?松沢・植田:荷車というか、馬で引くもの。タークルチャーと言った。天草へ到着したその晩に知野さんという息子さんが向こうから、伝令だかで来るときに撃たれてしまった。―一人で来たんですか?松沢:撃たれて即死だった。背中を撃たれて、穴はこんなに小さい穴だったけれど、弾が(体の)反対側に出てくるときはこんなに大きな穴になった。私は見せてもらったけれど、えぐれて即死だった。可哀想だった。―着いたところを撃たれてしまったのですか?松沢:着いたその晩。そしてその晩、着いてちょっと経ったらもう大匪賊がいた。それでみんなコーリャン畑へ行って逃げた。それで子供、赤ちゃんが大勢いたけれど一声も泣かなかった。誰も一人も泣かなかった。そこへ笛を吹いて(匪賊が)大勢来て、私達が持ってきたタークルチャーの荷物を全部積んで、(私達が)笛を吹いて行ったら匪賊が逃げて行った。それで、匪賊が行っちゃったということで校舎にまた入った。倉田:天草でお金も全部盗られた。松沢:今度は布団も何にも無くなった。それで草を刈っきて、敷いたり着たりしてブタと同じ生活をしていた。倉田:子供のオムツの中に入れておいたら、それもちゃんと知っていて全部持って行かれちゃった。―オムツの中に何を入れておいたんですか?松沢・倉田:お金。全部持っていかれちゃった。植田:目ぼしいものはみんな持って行かれちゃったし、お金から何から。―逃げて外へ出て行っている間に盗られてしまったのですか?倉田:襲撃で追い出されて、その留守の間に全部持って行ってしまった。松沢:草を刈ってきて敷いたり着たりしてブタと同じ生活をしてきた。それでシラミがいっぱい出てね。植田:そうそう。―天草で一番ひどい襲撃があったということですか?


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