満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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の通知を受けて少し早く富貴原へ行った。それより前に、長兄金美さんは軍隊除隊後、竹男さんの看病のために渡満していた。竹男さんは昭和二十年二月に亡くなり、清一さんと金美さんは遺骨を持って一時日本に帰国。葬儀後、金美さんはそのまま日本に残り、清一さんは再び渡満した(船の都合で昭和二十年六月)。この時は大勢渡満しており、市川富美子さん親子、中村彰さん親子、西川さん、女性の三澤さん等と一緒だった。義勇軍の訓練所には戻らず、許可をとって富貴原→内地→富貴原と行った。・義勇軍からは松井勝彦さん(旧姓宮下/宮下泰之さんの弟/昨年亡くなった)、安藤五男さん(駒ヶ根在住)と三人で富貴原へ行った。手記にある団の金を一緒に預かった安藤君とは安藤五男さんのこと。○終戦の頃・召集令状が来て、チチハルに入隊するために歩いて行くと、チチハル方面が煙で濛々としており(重要書類等を燃やしていたのだと思う)、興安嶺の方からトラックがチチハルへ向っており、将校がどんどん逃げていた。途中で伊那出身の将校に会い、敗戦を知って団に戻った。軍隊の将校や満鉄の幹部は真っ先に逃げていた。○終戦後のこと・花岡↓本部↓大和↓伊南↓天草↓現地人集落の順。・天草開拓団のところにいたときは、夜中に馬や牛を(一頭以外)全部もっていかれた。その頃、若い女の人も坊主頭にしていた。・蒙古の騎兵隊には松井勝彦さんと二人で入った。蒙古人は日本人に対しても比較的良く、日本人二人にだけは御飯を炊いてくれた。・帰国の途中、病気で歩くことのできない安藤としゑさんと待男さんをタンカに乗せて運んだことがある。○一番印象に残っていること・チチハルの収容所に来た時に、若い人は死人(引き上げ途中の日本人の人たち/女性も子供もいた)の片付けをした。あちこちの収容所へ行き(すでに引き上げてしまった収容所には死んだ人たちが残してあった)、馬車に積み重ねるように乗せ、大きな穴が掘ってある所まで行き、その穴に放り込んだ。穴に放り込んだ死体には、すぐに中国人が来て、服を全て剥いでいった。また、その後野犬が来て、町の中を日本人の手や足を咥えた犬が歩いていた。当時は神経が麻痺していて何も思わなかったが、今でもこのような夢を見ることがある。【浦野しげみさん】花岡部落○渡満について・夫正清さんは基幹先遣隊で岡さんや関さん、北川さん等と一緒に行った。・正清さんとは開拓に行くよりずっと前に結婚していた。行く前は夫(三男)の生れた家(夫の兄の家)においてもらっていた。その家には子供がいなかったので、自分達(正清さん・しげみさん)の子供を置いていってくれと言われたが連れて行った。満州に連れて行ったため、子供はみんな亡くなってしまったので、あの時置いていけばよかったと思うと切ない。○終戦後のこと・天草開拓団(の学校)にいた頃、ロシアの兵隊が来た時、北川あや子さんが怖がる子供を抱いて寝てくれた。・天草を出て皆バラバラになった後、油しぼりをして、内地に引き揚げるのを待った。先遣隊として皆を連れてきた責任から、先に帰るわけにはいかなかった。○満州開拓とは・恐ろしいことばかりで楽しいことはあまりなかった。【その他】※開拓団の位置関係については、松沢政文さん、片桐吉胤さん、山川信次さん、倉田作子さん等に聞いた。※白鳥(旧姓市川)富美子さんは、一時間くらいでお帰りになられたので、お話を聞くことができなかった。また、昨年出席されていた方のうち、山崎正一さん、宮下晶子さん、向山松子さんは欠席だった。五平成十九年四月一日富貴原会にて※一部編集【小笠原みのりさん】団長さん(村上さん)と同じ樋口の生まれ―当時の写真などを持っていますか?北沢さんが撮ってくれたが…。満州に行った時、北沢さんがジャラントンまで迎えに来てくれた。あったけれどその写真も向こうへ置いてきてしまった…。―置いてきたというのは?身のまわりのものは全部一緒に置いてきてしまった。―盗られたということですか?盗られたというか…みんな集結しなければいけなかったので持って歩けなかった。そんなもんというか、写真も大事だけれど、食糧など他に持っていかなければいけないものがあったので。満州へ行くときに、親がアルバムに貼っておいてくれたのをはがして持って行ったが、それも置いてきてしまった。終戦前に(日本へ)送っておいた人もいたかもしれないが…。―満州で一番印象に残っていることは何ですか?私が思うのは、入植してそこの(日本で言ったら県庁のようなところの)区長さん


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