満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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【松沢政文さん】○位置など・富貴原へはジャラントンで列車を下りて、そこに団の連絡所があり、そこから本部には明日何人来るという連絡があると、トラックで迎えに来た。距離はジャラントンを朝出て、夕方に富貴原に着くという距離。・三峯郷開拓団の人たちはジャラントンの一つ手前の駅で降りていた。・ジャラントンはロシア系の人たちが作った上品な町だった。【宮下泰之さん】花岡部落○渡満にあたり・中箕輪村役場で山崎千十さん夫妻、小池豊平さん夫妻と合同結婚式をして、その後渡満した(昭和十八年二月十日)。最初から奥さんと一緒に渡満した。山崎さんと一緒に行ったと思う。○印象等・満州に行ってからの年数が少ないので特に印象はない。終戦二十日前に召集されて、シベリアに抑留された。満州に行く前には召集は無いようなことを言っていた。【宮下園枝さん】○終戦後・終戦後満鉄の人たちが捨てていった着物を着て帰ってきた(※手記)ことについては、その人たちは先に逃げてしまっていたので、その残りをもらってきたが、それはメーセンのような弱いものだったので、擦り切れて胸が出てしまい、他のものをもらった。最後は軍服を着て帰ってきた。○その他・泰之さんの弟(宮下勝彦さん)が義勇隊に行っていたのが終ったので開拓団へ呼んだが、すぐに終戦になった。【片桐吉胤さん】泉平部落○渡満について・家族全員一緒に渡満した。大泉の吉田守夫さん一家も一緒だった。昭和十九年四月に渡満した後、父は一度家の処分のために帰郷(十九年十月頃)した。○吉田守夫さんについて・吉田守夫さんとはよく一緒に遊んだ。守夫さん以外は全員満州で亡くなり、帰ってきた後は美篶の親戚の家に引き取られて行ったと聞いている。十年程前に勤めている間に家に来たことがあるらしいが、今はどこにいるかわからない。○満州での話について・お父さんお母さんはあまり満州の話はしたく無さそうだった。こちらから聞けば話をした程度。二番目の姉(千恵子さん)から色々な話を聞いた。○引き上げ生活について・父は昭和二十年の早い頃召集された(四十代後半)。・引き揚げ生活は、親の言うことを聞いて必死でついてまわった生活。牛追い(牧草地を転々とする)の仕事に、片桐さんなどの子供が携わるなど、各満人の家族の家に住まわせてもらい、働いて生活した。・当時都市には開拓団以外で行っている日本人がいたが、先に逃げていて、開拓団の人たちが逃げて行く時には誰も居なくてガランとしていた。・天草開拓団では、収穫した後の豆を拾って、鉄板で炒めて食べた。・一番上の姉がジャラントンの女宿(百姓の学校のようなところ)へ行っていて、そこで吉田守夫さんは早く(昭和二十一年の初め頃か)に帰郷したと聞いた。・片桐家は、一番上の姉がチチハルで一緒になり引き揚げてきた。船の中で赤痢が流行っていたので一ヶ月くらい上陸できなかったが、昭和二十二年一月に上陸し、その下旬に郷里に帰ってきた。二番目の姉だけ別のところに行っていたので、別の人たちと帰って来た。○その他・現地で亡くなった妹以外は健在。二番目のお姉さんは当時のことを良く憶えている。【飯田和直さん】本部部落○渡満について・小六の時に一家で渡満。満州で高等科二年(※現在の中二)を卒業した。○引き揚げについて・家族がちりじりばらばらになったことが大変だった。・家族の中に女の子がいると現地の人の待遇は良かったが、妹さん(二人)が亡くなったので追い出された。二人の妹さんは、終戦後栄養失調で亡くなった。・昭和二十一年頃博多に上陸した。【伊澤清一さん】義勇軍↓花岡部落○富貴原へ来るまでの経過・富貴原へ来る前は義勇軍にいた。義勇軍には自ら志願した。その当時伊那町から二十五人、東春近から十五人など、大勢いた。・義勇軍を昭和二十年三月に卒業して、その後実の姉である向山松子さん(向山一雄さん妻)のいる富貴原に来る予定だったが、二十年二月に次兄の竹男さんが危篤と


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