満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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の指導員に行っていたので召集されなかった。○引揚げについて・どんなことをしても生き残ろうと思った。陸地は何とかなると思ったが、海をどうやって帰ろうかと思った。何とかして日本に帰りたいと思った。三澤えつこさんや野溝さんと一緒に帰ってきた。○その他・日本はえらいこと(大変なこと)をしたと思う。開拓とは名ばかりで、中国人の土地を取り上げてそこを開拓していた。【小笠原吉治さん】・引揚げてきた後も残留孤児の調査など色々な事をしていたので、あまり憶えていない(わからなくなってしまった)。【植田正子さん】大和部落※一部松沢良子さん、小笠原みのりさんも一緒に○渡満について・生年月日は大正八年十二月二十六日。・夫福弥さんは基幹先遣隊で行った(一緒に岡さん、林英生さん、北沢正吉さん、村上顕さん、小川巌さん、北川米一さん、関さん、小笠原さん)。夫福弥さんは親戚にあたる人。その後福弥さんが一時帰郷し、中箕輪村の送出本部で(小笠原さん、岡さんと)合同結婚式をして、二人で渡満した(十八年一月頃)。○現地で住んでいたところについて・小笠原さんと同じ(本部→花岡→大和)。大和の部落長は山口清勝さんだったと思う。大和には他には野溝さん等。○診療所でのこと・手記に出てくる診療所の先生は山下静雄さん。伊那の倉田さんの怪我の際には先生が留守で、先生の奥さんに言われて看護婦の植田さんが手当てをした。○山口三郎連さんの事故について・山口さんは矢ケ崎さんの死亡届を持って行った際に事故にあった。○終戦後、ロス山屯の屯長(トンジャン)さんの所で世話になった頃のこと・昭和二十年十二月頃~。屯長さん宅に、植田福弥さん、鈴木暦造さん一家、小川作子さん親子。近くの集会所に植田正子さん親子、桐原国弘さん、西川さんの家族、松沢良子さん・富美子さん(ここで亡くなった)。・お正月に中国人の娘さんが、糸を口に咥えておいて顔を剃ってくれた。鉄よりもきれいに剃れた。・お彼岸(二十一年三月)に、かつて天草開拓団で大襲撃を受けたときに大勢亡くなったので、お参りに行った。男の人たちが先に行って様子を見てきたが、お墓を掘り起されて、着物を剥ぎ取られて、野犬が肉を食べてあり、あまりの惨状に来てはいけないと言われた。○ナチトンの軍人病院で働いていた頃・松沢さん、鈴木さん、白鳥儀八郎さん、山崎さん等と住んでいたと思う。・病院で働いていたのは自分だけ。○チチハルの頃・チチハルに出るにあたっては保科さん(奥さんが助産婦)の車で来た。・タバコ巻きの仕事でお世話になった片桐さんは松島の人。旦那さんはお坊さんの代わりにお経をあげてくれたりしていた。※松沢さん談植田さんの旦那さん(福弥さん)は、天草で現地人の大襲撃を受けた際に、一番前にいて、(女性など他の人には後ろへ行けといって)皆のかわりにムチで打たれた。この時桐原先生は匪賊が千人取り巻いていると言った。天草では布団も服も無く、ヤン草を刈って服や布団の代わりにした。○引き上げのルート等・敗戦後伊南へ↓天草↓現地人の家へ(ここからバラバラに分かれた)。白鳥儀八郎さんが引き上げにあたっては中心になっており、誰がどの家に行っていたか知っていたと思う。コロ島で入院していたので(肋膜炎、夫もケガ)、皆と離れて家族三人で帰ってきた。【松沢良子さん】泉平部落○渡満について・夫(政文さん)が先に行き、昭和十九年に一度帰郷。同年一月十八日に自宅で結婚式をして、一月中に夫婦で渡満した。一緒に行ったのは西箕輪の尾崎さん(おととし亡くなった)。○泉平の火事について・火事は昭和二十年四月十五日で間違いない。○山口三郎連さんの事故について・昭和十九年、火事より前だと思う(植田さん、小笠原さん談)。○娘さんについて・名前は富美子さん。昭和二十年二月二十日生まれ。昭和二十一年一月十五日に亡くなった(トンジャンにいるとき、ハシカで)。


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