満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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【飯田和直さん】伊那町出身・少年航空隊に志願し、小学校を卒業したら行くつもりだったが、親が何とかして行かせないために一家で満州へ渡満して、少年航空隊を免除してもらった。同じように少年航空隊に子を送った親には「良かったねえ」と言われた。また、行った仲間について、行って直ぐに戦死の報を聞いた。・十二・三歳で渡満したため、現地でのことはあまり詳しくはわからない。【伊澤清一さん】伊那町出身・義勇軍は三年間訓練。昭和二十年三月に訓練所を卒業して、姉さんが居る富貴原郷開拓団へ行った。普通は卒業すると義勇軍で団を作って行ったが、身内が団に居る人は、それぞれの団へ別れて行った。・富貴原の人たちとは、お互いに助けたり助けられたり。終戦後の逃避行は大変だったが、団全体で集団自決したところ(泰阜・南木曽等)もあったので、富貴原の人たちはまだ良かった。・義勇軍の同級生(十八歳以上)はほとんどがシベリヤへ連れて行かれたが、十七歳だったので行かずに済んだ。富貴原に居た義勇軍は他に二人くらい。【宮下晶子さん】山口国子さんの娘・母である山口国子さんは山口三郎連さんの妻。三郎連さんは現地で馬と共に穴に落ちて亡くなった。その後、国子さんは現地の人(中国人/晶子さんの父)と再婚し、中国に残り、四人の子を産み、育てた。国子さんは中国で二十三年間暮らし、昭和五十六年に晶子さんと共に帰国した。国子さんは十年ほど前に七十八歳で亡くなった。・(晶子さんは)中国人父との間の四人の子の末っ子。長男一家と晶子さんは日本へ、二男一家と長女一家は中国に。残るも行くも大変だった。【白鳥富美子さん】中箕輪村出身旧姓市川・父の兄が開拓団の募集に来て、兄弟なのでということで満州へ行った。昭和二十年三月の東京大空襲のすぐ後に行った(当時小六)。【植田正子さん】南箕輪村出身・終戦後、ナチトンに蒙古人の軍人病院があり、そこで看護婦として働いた。【浦野しげみさん】中箕輪村出身・現地で子供三人を亡くし、終戦の時にお腹に居た子が跡をとっている。【山川信次さん】中箕輪村出身・みんな「満州開拓の歌」に騙されて満州へ行った。四平成十八年四月月二日(日)富貴原会にて※要約【当日の出席者】安藤國男さん、飯田和直さん、伊澤清一さん、植田正子さん、浦野しげみさん、小笠原吉治さん・みのりさん、片桐吉胤さん、倉田作子さん、白鳥富美子さん、松沢政文さん・良子さん、宮下泰之さん・園枝さん、山川信次さん以上十五名【小笠原みのりさん】大和部落朝日村(現辰野町山際)出身○渡満について・夫吉治さんは基幹先遣隊として一番始めに満州へ行った。その際一緒に行ったのは、植田さん、岡さん、北川さん、浦野さん、関さんなど。その後一度帰郷して、中箕輪村役場で植田さん夫妻、岡さん夫妻と三組で合同結婚式をして、夫吉治さんと渡満(昭和十八年一月頃)。植田さんたちの方が少し先に渡満したと思う。渡満に際して、大陸の花嫁としての訓練等は特にしなかった。○満州に行くにあたり・別の人との結婚話があり東京へ行ったが、農業一筋で育ち、都会の生活は嫌だったので帰ってきた。妹(仁科庵子さん)が第一次勤労奉仕隊に行き、その際団長さん(村上顕氏)が同じ朝日村(万五郎)の人だったので、団長さんの紹介で小笠原吉治さんと結婚した。○現地で住んでいたところについて・最初に本部、次に花岡、最後に大和部落に落ち着いた。○現地の人について・大和部落の前に大きな湿地があり、そこを開拓するために現地人が大勢いた(日本の指示での開拓らしい)。現地の人はとても親切だった。飼っているニワトリの卵をやると、お礼にお金を持って来たり(いらないと言った)、何か御馳走が出来ると呼んでくれたりした。本当に親切だった。その人たちとの関係は対等だった。・引揚げの際にどこか(チチハルかハルピン?)で買い物をしていたら、八路軍の将校に名前を呼ばれ、見てみると湿地開拓の時に苦力をしていた人(ワンさん)だった。呼ばれて行ってみると、その人は子供は元気かと聞いてその顔を見たり、お店に飛び込んで(時間がないので)色々なもの(食べ物など)を買ってくれたりした。・手記にある中国人の張青年とは、張万歳という名だったような気がする。夫は家畜


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