満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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かったので、渡りに舟だったのではないか。・その後、それぞれ別々にチチハルへ出た。チチハルでは、栄養失調による発疹チフス等で亡くなる人が多かった。(作子さんの)息子も、栄養失調による発疹チフスで亡くなった。また、子供を現地人に預ける人もいた。・チチハルには日本人会があり、旧関東軍の倉庫の所で生活していた。(作子さんは)現地人の公安局の炊事場で働いて生活していた。チチハルは治安が良く、身の安全は保てたが、自分で働かなければならなかった。・チチハルからは日本人会の連絡により、皆でまとまって帰って来た。コロ島から船で帰って来た。チチハルで一緒に居た人は全員一緒に帰って来た。・上陸前にDDTを全身にかけられた。その後日本に上陸。帰って来て辰野の食堂で食事をした。・夫(巖さん)は現地召集されてシベリヤで亡くなった。シベリヤで一緒だった向山一雄さんが死亡を確認してくれた。○帰国後のこと・帰って来てからは実家で世話になっていた。その後再婚。ka国は再婚を奨励し、多くの人を再婚させ、それでも結婚しなかった人だけに遺族年金をくれた。行く時は行ってくれと勧めておいて、帰って来てからはそ知らぬ顔。○今の感想・今となっては満州開拓は思い出しか残っていない。その当時の苦しみも薄らいでしまった。大変な目に遭ったが、生き抜くことができたので、困難なことがあっても生きて行くことができる。鈴木暦造さんには大変感謝している。三平成十七年四月三日富貴原会にて※要約【当日の出席者】安藤國男さん、飯田和直さん、伊澤清一さん、植田正子さん、浦野しげみさん、小笠原吉治さん・みのりさん、片桐吉胤さん、白鳥富美子さん、松沢政文さん、宮下泰之さん・園枝さん、宮下晶子さん、向山松子さん、山川信次さん、山崎正一さん以上十六名【山崎正一さん】花岡部落南箕輪村出身・二十歳で渡満した。兄も花岡部落に居た。【松沢政文さん】泉平部落南箕輪村出身・先遣隊の次の本隊で行った。・食料運搬に行っている間に泉平で火事があった。家族は全員、集落のすぐ前の湿地に隠れて助かったが、一切の道具を焼いてしまった。女衆の話では、生まれたばかりの子供を抱いて逃げる事は出来たが、オムツさえ持って逃げることが出来なかったとのこと。【小笠原吉治さん・みのりさん】大和部落東春近村出身・生まれた子を三日で亡くしてしまい、着物を着せて木の棺に入れて山の上に埋葬したが、数時間後に現地人が着物欲しさに墓を掘り返し、子供は狼が食べてしまい、木の棺の中は空になっていた。・国の農業試験場に行っていた時(吉治さん)、戦争が終りそうになったので部落に帰って来た。その時玉砕するつもりで農薬を持って来たが、それだけはやめてほしいと言われて使わなかった。・戦後、まだ現地に残っている人(現地人と結婚し、その人との間に出来た子等)の調査をしたところ、チチハルに十八人、ハルピンに十三人が残っていた。・開拓ということで行ったが、あれは開拓ではない。現地の人の土地をとったのだ。現地の人達の集落を少しの銭で買い取って、開拓団の部落とした。耕した畑も全て、元は現地の人たちの畑だった。日本人は大変なことをしたと思う。【宮下泰之さん・園枝さん】花岡部落南箕輪村出身・松沢さんたちよりも後に渡満した。・終戦の二十日前に召集された。シベリヤに四年間抑留された。・終戦の時、夫は召集されていて居なかった。その時、義勇軍の人たちが居てくれ、その人たちのおかげて助かった。・着る物が何も無く、満鉄の人たちが捨てていった着物を着て帰って来た。・昭和二十一年十月二十日頃帰郷。南箕輪村役場に着いてカンパンを貰った。家に帰って来たら、近所の人たちは芋掘りをしていたが、(園枝さんの)格好を見て大泣きしてくれた。食べ物が無く大変だったので、大芝の開拓に入った。【片桐吉胤さん】泉平部落?南箕輪村出身・父母は帰国して直ぐに亡くなってしまった。姉さん達はお嫁に行ってしまった。自身はまだ小さかったので覚えていない。・友達の吉田守夫さん一家は、守夫さん以外全滅してしまったので、自分はまだ恵まれていた。


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