満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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第三章聞き取り調査にて博物館では、『箕輪町誌』にも記されていない満州富貴原郷開拓団について知るため、開拓に参加された方への聞き取り調査を、過去数回にわたって実施しました。ここではその記録を紹介します。なお、文章は一部編集等してありますのでご了承下さい。一平成十七年二月十二日山川信次氏(伊那市山寺/大正十五年六月二日生)※要約○渡満の理由・昭和十六年三月中箕輪尋常高等小学校卒業。当時、卒業後は①兵隊②志願兵③義勇軍のどれかを選ばされた。兵隊にと思っていたが親に反対されたため、先生に相談して川崎市の会社に就職した。ここで約一年働いたが、扁桃腺を患い帰郷。その後、富貴原郷開拓団の募集(第二次)があったため応募した。○第二次募集の参加者・昭和十七年二月に八ヶ岳訓練所で訓練。独身者だったので、鈴木暦造さんの家族ということで団に参加。この時には七家族が参加した(福田基、長江要一郎、本田正勝、浅川各氏等)。○渡満・新潟から船で羅津へ。そこから鉄道でジャラントンへ行き、歩いて阿栄旗へ(昭和十七年四月)。阿栄旗に着いた時は、すでに本隊が入っていた。○集落・本部へ。満州に来れば独身者も一人前に扱うと聞いていたが、そうでなかったため、団長とケンカして飛び出して、川山屯の学校の隣にあった宿舎に入った。ここで独身者だけで生活した(清水一人、清水安美、田中乕雄、知野吉太郎、松崎昭二、船木定治氏等と)。○現地での生活・ほぼ一日中農業をしていた。・食料はいっぱい(腹いっぱい)あり、本土より良かった。主食はトウモロコシで、米粒くらいに砕いて、米を混ぜたりして御飯風にして食べた(現地人はおかゆ風にして食べていた)。肉も食べ放題だった。これは満拓から定期的に送り込んでくる家畜のうち、死んだりしたものをもったいないから食べたためである。若馬の肉が美味かった。・現地人との関係は表面的には良好だった。タバコを吸わないため、現地の人にタバコをやったりした。序列は、日本人→蒙古人→満州人(中国人)であった。・治安は悪かった。自身は略奪に遭った事は無いが、話はしょっちゅう聞いていた。・匪賊よりも狼が一番怖かった。食料運搬にジャラントンまで行ったが、途中で狼に遭う事が三・四回あった。食料運搬は月に一・二回行った。関久男さんと二人で行った。運んできた食料は本部部落に倉庫があり、そこで配給した。倉庫番は植田福弥さんで、その助手をしていた。・昭和十九年に入り開拓が落ち着きはじめた頃、富貴原神社(お宮)を造った。・昭和十九年四月に泉平部落が野火で燃えた。応援に行った時には、もう火がくすぶっていた。部落には誰も居らず、少しすると泉平部落のすぐ前の現地人の集落から泉平部落の人達が出てきた。けが人がなくてホッとした。○現地召集・昭和二十年七月一日に徴兵された。徴兵検査は一年くらい前から(昭和二十年二月)ナチトンで準備があった。ジャラントンから列車で行き、ハルピンの一三九九八部隊へ入隊した。これは関東軍直轄の教育部隊だった。・午前中は銃をかついで訓練。午後は戦車の整備や農業などという生活が約一ヶ月続いた。関東軍も畑を耕し、野菜を作っていた。・入隊して一週間で嫌になった。一週間はお客様扱いだったが、それを過ぎるとビンタはされるは、星一つ(階級)の差で口ごたえさえ出来なかった。何よりも上官におべっかを使わなくてはならなかったし、夜になると上官(古参兵)は酒を飲んで宴会をしていたが、部下は腹をすかせて使いっぱをしていた。上官に伊那節や勘太郎を歌わされたこともあった。なお、教育部隊だったので、将校はそういうことを嫌った。・昭和二十年八月九日ソ連参戦。非常呼集があり、朝食前に完全武装して庭へ集合。訓示の後実弾が渡され、ハルピンの飛行場へ整備に行き、タコツボ(壕)を掘った。これで最後かと思い、軍隊手帳に色々なことを書き込んだ(その手帳は無くしてしまった)。・次の日の明け方、敵の空挺隊が来ないことを知り、朝食後本部に引き揚げた。その後どこかの守備に行って、ソ連の飛行機が来て機銃掃射があり、慌てて大豆畑に隠れた。またハルピンの町を死守するといわれ、郊外で対戦車の塹壕掘りをした。その後部隊に戻り、そこで終戦を迎えたと思う(この辺りの順序はあまりハッキリしない)。○終戦、シベリヤ抑留、帰国・昭和二十年八月十五日、玉音放送を聞く前に武装解除しろといわれ、銃を置きに行き、戻って来て放送を聞いたと思う。放送の内容はよくわからなかった。


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