満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.38

込んだ。蒙古兵の隊長は「絶対ここから撃ってはいかん」と、兵隊達我々を守ってくれた。後でわかったが、我々日本人が蒙古兵を頼んで復讐に来たと思ったらしい。やっとおさまったので出発、ジャラン屯へ着いた。そこで軍隊生活を強いられて、何ヶ月か経って内地へ引揚げが始まった事を知ったのである。隊長に話して姉達の居る部落へ帰してくれる様頼んだ。ところがすぐ許可が出て、姉達の部落へ急いだ。蒙古人達に引揚げが始まった事を話したが信じてくれず、仕方なく伊沢君と二人でジャラン屯へ再び行き、日本人会長の書類を書いてもらい、帰って皆んなに見せたが、どうしても帰してくれず、又二人で今度は公安委員会の書類を書いてもらいに行く事になり、再度ジャラン屯へ出発した。途中で姉達の呼ぶ声がしたので見ると、老人達が我々を帰してくれると言う。変わらぬうちに早速出発。早く行かないとジャラン屯までに到着しないと日が暮れてしまう。夢中で歩いた。どのくらい歩いたか、丘の上に来たところで日本人五・六人と合流したが、間がなく馬に乗った若者達が我々の方に向って来て「帰ってはならぬ」と怒鳴る。途方に暮れていたが、ふと日本人会の書類を思い出し彼らに見せたところ、我々十二名だけは「帰っても良い」と言われたが、後から来た人達はやにむに連れ去られてしまった。あの人達はどうなったのだろう…。我々は足を早めた。満人部落を幾つか通りぬけたが、その度に何時彼らが飛び掛って来るか恐ろしく、子供も泣かせない様、我々も無言で走り去って、やっとの思いでジャラン屯へ夕方着いた。五・六歳の福田さんの子供二人は背負ってやる事も出来ず、なんとかだましだまし歩かせたが、十里程の道を大人の速さで良く泣かずに付いて来たかと感心した。翌日はさすがに疲れて熱を出し、足もはれてしまい寝込んでしまったが、二日程で治りホッとした。ジャラン屯の日本人収容所へ着き、伊南の人達と一緒の所で宿をとった。二日目に知野君の弟が一人で来た。話を聞くと、岡さんの奥さんとジャラン屯まで来たが、奥さんは「内地には帰らない」と言って別れたとも言っていた。私と伊沢君、知野君三人で岡さんの宿っている所へ行ってさんざん説得したが、後ろにいる満人達がどうやら引っ張っている様に思えた。岡さんはチャンスがあれば「妹と子供の遺髪」を持って必ず帰るからと言っていた。それ以上満人達が我々をにらめているのでどうにもならず、説得を諦め帰った。こうしているうちにジャラン屯を出発する日が来た。知野君を入れて十三名で力を合わせて離れずに帰る事を誓った。出発、汽車でチチハルへ着いた。関東軍が使っていた倉庫が我々の宿としてあてがわれたが、土間で何も無いので「フスマ袋」を敷いて寝た。そこで又安藤さんと子供二人と一緒になった。広い所であったが、我々はあちこちと富貴原の人達を捜し歩いた。ちりぢりになったが、それぞれのグループで帰って来ていた。皆んなと再会出来て手を握り合って喜んだものです。チチハルへ着いて二・三日位して、若い青年狩が始まり、私達は姉達と一緒だったので連れて行かれずに済んだが、中共軍が人手が足りないので連れていったと聞いたが、五・六年後帰って来た人達に会って話を聞いたところ、かなり苦労したらしい。チチハルに一週間位だったと思う。我々の出発の日が来た。安藤さんは土間の冷えから神経痛が起きてしまって、歩くに不自由になってしまったが、皆んなでかばい合って汽車に乗せた。ハルピンを過ぎて間がなく、これより先は汽車は行かないから歩いて行く様に言われる。皆んなで線路づたいに歩いたが、安藤さんは歩くことが出来なくなり、「タンカー」を探して四国の人二人を頼み、伊沢君と四人で担いだ。長い道のりなので疲れて、又肩も痛くて担げなくなり、何とか頼み松河江まで着いた。向こう岸まで渡る細く長い橋があり、そこを渡るにも大変なわざであったが、とにかく渡り通した。そこで国民兵から差し出してくれた馬車に親子三人乗せてもらい我々はホッとしたが、安藤さんの事で夢中で、姉達の事は忘れていた。姉達も子供をおぶったり、荷物を持って歩くに大変だったと、泣きながら叱られてしまった。河を渡った所で再び汽車に乗ったが、中共軍は客車であったが、国民兵の方は貨車で、子供達は真中に入れ必死でつかまって、やっと新京に着いた。収容所に安藤さんの主人が奥さんの帰るのを待っていた。事情を話したら病院へ行き、そこから家族皆んなで病院船で我々より早く内地へ帰っていた。新京で伊沢君と二人は疲れで熱が出て寝込んでしまった。出発間際になっても治らず、我々の団長は四国の人で、船に乗るまでいじめられたものです。何かといやがらせを言って来たが、何でもかんでも連れてってくれる様頼み、やっとの思いで皆んなと一緒に新京を出発。今度は錦州という所の収容所で出発を待つ間入れられたのです。そこは狭い部屋にいっぱいの人が入り、足を伸ばすことも出来ない有り様、私達二人は未だ病気が治りきれずにごろごろしていたが、団長が来て「荷物運びを手伝え、さもなければ十三人には飯を食わせぬ」といやがらせを言って来たので仕方なく皆んなについて仕事をしたが、「マキ」一束を二人で分けて担いだが、それでも重く皆んなとは一緒に歩く事も出来ず、又団長に叱られ、とてもつらかったが、皆んなのために一生懸命働いた。又四国の連中は市街に居たので、お金は持っていて何でも買って食べていた。我々は金も無く、支給される食事だけではとてもひもじいかったが、大人は我慢したが、子供達は彼らが物を食べていればそばへ行き、手を出すと乞食の子と言われ苦しかったが、とにかく内地へ帰る日まではと何もかも我慢した。いよいよ乗船の日が来た。本当に日本へ帰れるのか、それとも何処かの国へ連れて行かれるのか不安であった。船は「コロ島」を出港した。何日も何日も海ばかりで何も見えない毎日。食べることばかり書くが、船に乗る前に我々達の食べる食料としてコーリャンやメリケン粉を積み込んだのに、食事ときたらスイトン一杯だけ。これでは先の事が心配で眠れない毎日でした。そんなある日、向山さんの姉の子供が亡くなってしまった。一生懸命皆んなでかばい合ってここまで来たのにと泣き叫び可哀想だった。何日かして島が見えてきた。又船には日の丸の旗がついていて、今までの不安も吹っ飛び歓声を上げ、喜んで手を振った。船は佐世保へ入港した。そこで二日ばかり上陸できな


<< | < | > | >>