満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.37

集合した。夜十時頃、天草後方から銃声と共に匪賊の大軍が攻めて来た。家を焼く者、家の中を捜索する者、又逃げる者はどんどん銃殺された。その中に知野君や岡さんの妹さんはその時に殺されたのでした。私は倉庫へ何人かの人と隠れたが、銃でどんどん撃ってくるので生きた心地はなかった。そのうちに天草の人達が我々の倉庫へ連れて来たのでいっぱいになった。富貴原が心配で行きたくても、一歩も外へ出る事が出来なかった。数時間くらいたって静かになったので外へ出たところ、もう夜が明けて薄明るくなっていた。見ると満人達が馬車何台もで日本人から取った荷物をいっぱいに積んで帰るところでした。悔しくても手が出ず、皆泣くだけでした。学校にいた者は前の畑に逃げて無事でしたが、富貴原で二人も犠牲が出てしまい、皆悲しみのうち丁重に葬ったのでした。この時天草や伊南でも大勢の犠牲者が出た。多分蒙古兵が匪賊に我々を売ったのか、後で気づいたら蒙古兵が逃げて一人もいなかった。蒙古兵のいなくなったのを知った匪賊は、入れ替わり入れ替わり毎日やって来ては、我々の着ている物を剥ぎ取って持って行ってしまった。畑の中に隠してあった衣類も残り少なくなり、本部の金銭も少なくなり、食事もつめなくてはならず、空腹と何時来るかわからぬ匪賊に怯える毎日でした。そんなある日、たしか二十年九月二十日と思う。朝早くから「カマ」など持った満人が丘の上で大勢集結しはじめ、我々若者は本部へ集合。又、役員はその満人達と話し合っていたが、いきなり満人が「カマ」を振りかざして襲い掛かってきた。私々達は其処此処にあった棒切れで戦った。必死で戦う私々達に、満人達は丘の上まで逃げたが、「にらめっこ」は何時間か続いた。その間富貴原の若者は団長さんに呼ばれ、「少なくなった金ではあるが皆んなで守ってくれ」と言われ、腹巻の中へ隠した。その時団長は、「この金を彼らに取られたら明日から仲間が食事も出来なくなるので、いざという時は真っ先に逃げて金を守ってくれ」とも言われたものでした。そのうちに満人たちはどこからか銃を持ってきて撃ち始めたのです。前線にいた我々もどうにもならなくなり、「金」の事もあり前の畑の方へ逃げたが、皆んなが心配になり振り返ってみると、皆んなも一団となって逃げて来た。満人達は学校や家屋の中をさがして、我々の方までは来なかったので、又皆んなで団結して、いつでも戦える様に準備したので、我々の方へは攻めて来なかったが、この時もかなりの死傷者があった。やがて蒙古兵が来たので、我々は恐ろしさと安堵等で疲れきって学校へもどったのです。こんな事をしていれば、そのうちに全員が死んでしまう。何とかならないかと思っていたところへ、伊南開拓団から逃げて蒙古人のところへ行った伊藤さんが来て、「蒙古人の部落で働かないか。匪賊も来ないし親切だから」と誘われたが迷った。その夜又匪賊が来て、着のみ着のままの我々の衣類を剥ぎ取ってしまった。これでは今夜にも皆んな寒さで死んでしまうと思った時、誰かが我々の事を知らせてくれたので、他の団の人達が棒切れを持って大声を出して攻めて来た為、我々からもぎ取った物を全部置いて逃げていってしまった。おかげで又命拾いをしたのです。これではとても生きられないと思い、伊沢君と相談して、蒙古部落へ逃げる事を決心。今まで「団結」していたのに、勝手な事はわかっていても、こうするより仕方なかったのです。二人で団長に話したが、やはり怒られ、それでも「お前達、行くなら富貴原の者ではないから、何かあっても連絡は断つ」と言われたが、我々は決心した。次の日に国民兵の守っていたナチ屯へ中共兵が朝早く攻めて来た。この時とばかりに我々は天草開拓団を離れた。生死を共にした皆んなと別れるのはとてもつらかった。人数は私と姉とその子供、伊沢君は姉とその子供と、向山さんの兄嫁さんと七人でした。団を離れて間もなく、福田の奥さんが子供三人連れてきて、「私達も連れてって」と言われ、立話をしていては満人達や兵隊に見つかるので一緒に逃げた。三・四里位草原を走った。皆んな無言で必死だった。ここで見つかってはそれこそ犬死も同様、皆んなに笑われ者になる、そう思った。草原を過ぎたところに河があり、幸いにも橋があり、渡ったところに蒙古人の部落があって、そこでひとまず一泊した。しかしそこに居ては危険なので、明日は奥地へ行くよう言われて、又蒙古人の馬車三台で早朝発った。途中でジャラントンへ行った時通った道と合流。よく知った道だが今は違う、いつ何処から攻めて来て女・子供を連れて行かれるのか、男は殺されるか、生きた心地は無かった。湿地帯を過ぎたところでジャラントンへ行く道と別れて奥地へ入り蒙古人部落へ着いた。蒙古語は話せず、支那語と手まねで話す始末。でも彼らは満人より親切で、ここでは匪賊は来ない事を知りほっとした。ここの生活が慣れた頃、親切にしてくれた伊藤さん夫婦が死んだ。残された子供四人は蒙古人に連れて行かれた。この子供達は今頃どうしているのでしょう…。ある日蒙古兵がやって来た。若者に軍隊に入る様(軍隊狩)に来た。そこで日本人の若者が二人いる事を知って、我々の所へ来て「軍隊に入れ」とやにむに連れて行かれた。あちこちの部落を廻ってナチ屯へ着いた。そこで又、伊南開拓団の飯塚君と池田君を連れて来た。ナチ屯を出発してどっちの方向かわからないが、途中で日本人に会ったら「この奥の方に富貴原の人達がいる」と教えてくれた。我々軍隊の馬車は東へ東へと行ったと思う。ナチ屯からかなり行った所で田中初ちゃんが居た。そこでの部落で昼食だったので初ちゃんと話が出来た。初ちゃんに、こんな奥地では皆内地へ帰る時に連絡がつかないからナチ屯の近くまで行く様すすめたが、初ちゃんは「母親と兄の子供の墓が此処にあるし、又今は夫(満人)と幸福だから此処からは離れない」と言って、我々の言う事も聞いてくれなかった。今はどうしているか気がかりです。我々はあちらこちらと連れて行かれ、何十人かの若者を集めたのでジャラン屯へ帰る事になった。ナチ屯へ引き返し、富貴原の方へ向って太平溝の部落で昼食をする事になった。終戦前はとても親しかった大工の家族も、私の顔を見ても一言も話をしないし、どうも様子がおかしく感じた。太平溝を出発して、以前に学校のあった部落で一宿、翌朝私は用便をしに外へ出たところ、私をめがけて一斉に丘の上から銃で撃ってきた。必死の思いで家に飛び


<< | < | > | >>