満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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三十七年前の思ひ出体験記松井勝彦(旧姓宮下)昭和二十年三月(十八才)、伊拉哈訓練所より兄の居る富貴原開拓団へ入植。七月の末、兄は召集令状が来てチチハルへ入隊。その時富貴原で大勢の男性が召集された。若い私は何から手を付けて良いやらてんてこ舞いの毎日。そんな矢先、若い者といっても満十八歳の私達に召集令書が来てしまった。ナチ屯へ十五日令状を渡され、今まではジャラントンを出たのですが汽車ではだめ、馬車でチチハルへ出る様言われ、あちこちから集まった人達で馬車を何台か連ねて出発。夕方隣の旗庁の有る町に到着。そこで日本が負けた事を知らされ、急いで帰る様命令され、皆シーンとしてしまった。気を取り直しナチトンへ帰ったが、ここには日本の敗戦の知らせは入っておらず、白系ロシア人の「デマ」だろうからすぐ十八日に間に合うよう行けと言われ、再びチチハルへ。十六日朝である。昨夜仲間は夜通し走ったので疲れて無言。十七日夕方、チチハルへあと十里位という所で馬夫の満人はすでに敗戦を知っているらしく、そこから先は「行かぬ」と言い出して、仕方なくそこの馬宿で宿る事にした。その夜の十二時頃、大声で「日本人が居るか」と叫ぶ声で皆が目を覚ますと、チチハルから逃げてきたという日本人が、「日本は負けた、早く帰らないと十八日の夜ロシア兵がチチハルに入城する。道中で見つかれば大変だ」と言う。急いで帰る支度。馬夫を起こし話をしたが言う事を聞かず、さんざん頼んでやっと引き返す事が出来ると思ったのも束の間、五里程帰った所の馬宿で、馬夫は「これから先は行かぬ」と言い出した。仲間はあきらめ、歩いて帰る事にして、しばらくしてチチハルの方から一台のトラックが来た。これに乗せてもらおうと止めたところ、荷台には大勢の日本人が乗っていて、「このトラックは早く(町名は忘れたが)町へ行って重要書類を取りに行かねばならぬ」と言った。が、やにむに私達は乗った。まだ五・六名は乗れないでまごまごしている時、運転手が「もう一台後から来るから」と言われ、それを信じて仲間はトラックから手を放した、と同時に車は突っ走った。私達はトラックに乗れたおかげで夕方開拓団に着いたが、残された人達は十九日やっと足を引きずって帰って来た。後からトラックが来ると言ったのは「うそ」だったのです。私は村へ帰って、日本の敗戦を仲間を集めて言ったところ、「日本は神の国だ」と信じなかったが、丁度その時、夜八時頃、国道をロシア兵の戦車がゴラゴラと音を立てて走って行くのが聞こえ、それで仲間は敗戦をやっと信じたのです。泣き叫んで苦しがった。翌日本部へ行き、対策を練った。私達の村は本部へ集結する事になった。二十日、我々若い者で出来るだけ荷物を運んで、二回目は女・子供も乗せて本部へ行くことになった。私は馬車三台を繋いで本部へ荷を運び終え、帰路、途中で何処からか銃声が数発聞こえた。村の彼方を見ると、すでに女・子供は村を離れ、草原の方へ駆け歩いていた。我々は大声で仲間を呼び、馬車に乗せて本部へ逃げた。話によると百人位の満人が銃を持って攻めて来るとの事で、本部に居ても危ないし、伊南開拓団へ集結する事になり伊南へ出発。家財道具や衣類を置いたまま伊南開拓団へ着いて、時間が経って冷静になり協議したところ、どうも様子がおかしい。本部へ若者で銃を持って見に行く事になった。姉は心配して「行かないでくれ」と叫んだ。が、本部命令でしたので仕方なかった。本部の外壁から見たところ、男達にまじって女達までが我先にとばかりに家の中をかき回し、衣類などを探し、早い者は布風呂敷に包み背負って帰って行く者もいて、始めて満人達にだまされた事を知った。まだ武装解除になっていないので銃は五・六丁有り、そこで仲間で脅かしに銃声で威嚇したところ、驚き出てくるは出てくるは、各家から満人達、荷物を持って逃げ出し、我々もさらに銃で逃げる満人を追いかけ、追い散らし、伊南開拓団へ引揚げて、その話を皆んなにしたところ、すでに自決をする覚悟で泣き叫んでいた。仲間達は胸をなで下ろし、ほっとして、これからの事を話し合った。その結果植田さん達の部落に集結する事になり出発。その部落で何日か過ごしたが、その間に若者五・六人で銃を持って我々の部落を見に行きましたが、途中(私達の隣部落へよく水をくみにいった所)に着いたところ、その部落の男達が我々を見て前方の畑へ逃げたので、追いかけて行って見たところ、有るは有るは我々からかっぱらった着類が畑中に隠してあった。でも持って帰れないので仲間に報告する事にし、私達の部落へ行った。何にも無くからっぽで惨めな姿でした。帰って団長に話したが、その荷物を取りに行っても危険だから諦めろとの事、皆んながっかり…。そうこうしている内に蒙古兵が来て、伊南へ集結する様命令が有り、伊南開拓団で武装解除され、天草開拓団へ蒙古兵に守られながら出発。行く途中満人達が我々を見て笑っていたが、もうどうする事も出来ず、敗戦という惨めさでした。天草開拓団は幾つかの開拓団を集め、富貴原開拓団は学校の中に宿る事になったが、大勢でとても入りきれないので、黒板を集め中二階を作り、布団が無いので草を刈って来て敷き、丁度ブタがもぐる様に草の中に入って寝た。若者は学校の前へ半地下式の小屋を建て、そこで何時でも敵が来て戦える様にしていた。それからの生活が大変であった。全員百五十人位の食事の面倒を見なければならず、団長や植田さんなどは大変だったと思います。本部のお金は全員の食糧を買う事になり、一日二食、食器は無いので「おにぎり」で一人二個、若者は皆んなの先頭に立って働かなければと三個と定った。少しだが持って来た衣類は畑の中にやいやい隠した。又ロシア兵が来ると困ると、女性は丸刈りにして男装になって身を隠した。天草へ来てから蒙古兵が五・六名で守ってくれたが、若者が本部にて警備に交代でついていた。ある日、富貴原と違った女性が学校の二階の倉庫に宿って居たが、その人と蒙古兵と喧嘩になり、女性が逃げるところを銃で撃たれ死んでしまった。私も恐くなったが、そのままにしておけなく後始末に行き、皆んなで「こんなに簡単に死ねたら幸せだなあー」など不吉な事を言っていたが、それが現実となってしまった。その夜私は警備についていたところ、電話線を切っている様な音が聞こえたので本部へ知らせ、若者は皆本部へ


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