満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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一泊投獄され、午後通訳により一時も早く逃げるように言われた。折りしも逃れる場所が無い。考案のはて夜を待って汲取口より脱出に成功。約一キロ先の山に逃げ込むが、ソ連兵の狙撃にあい、山を降り谷にて手を取合って喜びしも、四名は遂に姿を見せず帰らぬ人となったかとも思う。その時の通訳はたしか日本人だった。その夜は満人の家に泊めてもらい、夜明けを待って大連に向け行動を開始。持物は一切満人にくれ、身軽になって出発。山から山へ渡り、軌道をたよりに南下。山というと小高い山で一面リンゴ畑。人目につかぬようにリンゴを取っては山に入り、一週間目に金州にたどり着く。その間食べ物はリンゴで過ごし、金州入口の満人より粟の赤飯を戴いた時こそ生き返ったような気がした。その時出合った人、九州出身浜地イソさん、金州城外で水田をやって居り、精米所を持ち、すでにソ連に渡っておったが、これよりソ連兵による精米作業に従事する。浜地一家は主人は応召にて不在。子供七人で八人暮らし。小生共に九人家族で米は充分あり、食べる事には不安はなく、約一年半寝起きを共にし、昭和二十二年一月二十八日大連港より乗船(※浜地一家)帰国す。小生一人残され、二月二十二日大連港より乗船、帰国。以後今日まで手紙によるお付き合いを続けており、冬には信州リンゴを送れば、九州からはイリコとわかめとのやり取り。すでに三十五年のつきあい。イソさんもすでに八十一才。今尚手紙のやり取りはせしも、高齢でありしも、いつまでも達者で長寿ありますよう祈りつ、思い出の一角とし筆を置く。昭和五十七年十月南箕輪村四八二二-三山崎正一満州に賭けた青春伊澤清一君達若者こそ満州の土となり、五族協和の頂点に立って頑張ってほしい。こんな励ましの言葉を男子の本懐と信じ、当時十五歳の私は、内原で二ヶ月の訓練を受け、昭和十七年五月渡満し、義勇隊伊拉哈訓練所に入隊しました。三年間の訓練を終える直前二十年一月、富貴原の長兄からの電報「タケヲ、キトク、スグコイ」、タケヲとは二兄の事です。この報せで急ぎ富貴原へ。見知らぬ広大な満州での一人旅。ジャラントンに着いたのは終列車で、下車する人も少なく、ましてや日本人は私一人くらいのものでした。迎えには義兄(向山一雄氏)が来るとの事。その義兄の顔も知らない心細さに…。駅から暗い街に出たところで「伊澤さんですか…」と声をかけられた時の嬉しさ、今も忘れない。翌朝早く富貴原へ。遠い事には驚いた。これが私と富貴原との初めての巡り合わせでした。二兄が亡くなり、遺骨を持って内地へ長兄と共に帰り、長兄は家に残り、私は六月再渡満し、八月敗戦と同時に死の逃避行が始まった。伊南開拓団集結、天草開拓団集結と、目まぐるしい移動々々であった。天草では襲撃に来る匪賊も何回となく遭い、牛馬・衣類は取られ、食糧も日一日と少なくなり、若い女性は髪をおとし男装をして、私達若者と屋外に穴蔵を掘って生活をしているころ、団の金総額で一万五千円余りを安藤君と二人で預かり、半分ずつ隠し持っていた事もあり、又この金を持って逃げようかと二人で相談した事もあります。姉がいなかったならば宮下君と三人で逃げていたかも…。死んでいく人、どことなく出て行く人、一日々々人が少なくなっていく日が続く。このままでは何時かは全員が死んでしまうだろうと思う。私達は蒙古人部落に行く事になり、私と宮下君は蒙古騎兵隊に連れられ自治区を廻り、ジャラントンの内蒙古人民自治軍第五師騎兵教導連隊に入隊。翌八月引揚命令が出るまで、蒙古人の名前で野戦隊員としておりました。蒙古名宮下君がハルバトル、私がチカンバトルでした。騎兵隊での訓練は日本軍の訓練そのままでしたので楽でした。ただ騎兵隊ですので毎日の乗馬訓練が辛かったくらい。日本人の引揚命令が出ると、隊長の方から直ぐに連絡があり、部落に残している姉達を連れて帰らなければと宮下君と急ぎ部落へ。姉達との長い引揚の旅が始まった。チチハル収容所に半月程居たろうか。私達若い者は毎日死人の片付けでした。馬車に数人のこもに包んだ死体を乗せ、乗せというより積重ね、その上に乗って、死体から這い出て来たシラミが私達のズボンに這い上がって来る、毎日の事なので何ともなくなる。チチハル忠霊塔の近くの日本人墓地まで、墓地といっても大きな穴が掘ってあるだけで、その中に捨てて来るだけ。私達が帰れば近在の現地人が死体の衣類をはぎ取り、少々の土を掛けておくばかりなので、手足を犬がくわえて歩いているのをよく見た。当時は神経が異常と言うか何と言うか何ともなかったが、肉親が見たならばどうであったろうかと思う。チチハルを出発し南下する事は確かである。汽車に乗っているうちはよい。八路軍と国民軍の境、汽車は無く、線路伝いで歩かなければならない。持てる限りの自分の荷物を持って歩かなければならない。その上私と宮下君は、病気で歩くことのできない安藤さんの奥さんと生後間もない子供をタンカに乗せて、あの体の大きな奥さんの重い事、自分の荷物は一つ捨て二つ捨てしても、私達の体力も無いので本当に辛かった。私が荷物をもてない分、姉は小さなひろ子を背負い、自分の物は捨ててもひろ子の物は何一つ捨てず、その上私が捨てた物も拾い持って、苦しい行軍に堪えてきた。親が子を捨て、殺して、生きて帰った人の少なくない当時の状態の中で、この子だけは何としても日本に連れて帰らなければという母親の愛と心の強さに、今尚尊敬しております。新京で安藤さんを見つけて奥さん親子を渡し、安心してかコロ島で乗船直前に私も病気になりましたが、何とか乗船出来、十月故郷の土を踏むことが出来ました。生涯忘れる事の出来ない深い傷痕を刻んで、今過ぎし遠き少年時代の希望と理想を偲んで、思い出としては余りにも悲惨ではありましたけれども、逝った拓友の冥福を祈り、生きて帰った拓友よ、開拓精神を忘れずに力強く生きましょう。


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