満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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さん達も皆坊主にした。九月の末頃だったと思う。匪賊も来ない静かな夜だった。夕方もガンが飛んで行ったが、大きなまるで絵を書いた様な大きな月が上った時もガンが飛んでいた。山口清勝さんが伊那節を唄う。勘太郎さんの唄は皆んなが唄った。しばらく窓べによって、皆日本を想っていたと思う。ソ連兵が娘狩りに来たり、馬賊が五・六人来たり、八路軍が来たりしたが、皆だんだん逃げなくなった。品物も無くなったし、外は一面に凍りついて、食べる物もだんだん無くなって、粟に半分凍った馬鈴薯を一緒にしたおむすびが一日に四つだけになった。母の病気がだんだん悪くなって来た。熱が出て起きられなくなった。外に有るつるべ井戸は周りが氷の山の様になっていて、とても近寄れない。氷ですべって中へ落ちてしまうからだ。缶詰のカンにひもを付けて、遠くから投げ込んで引上げ、上がったところで今度は横にならない様にそろそろと引きよせる。タオルも無く、肩裏にしていたサラシの小さな布を水にひたしてしぼり、缶の水は井戸より遠くへすてる。缶に手がはりついて取れない。一生懸命息を吹きかけ、やっとの思いで取る。冷たくて痛くて涙があふれて止らない。戸口の所まで来てやっと涙を拭き、大きく息を吸って戸を開けようと思うのだが指が曲らない。戸手に指がかからないので体中で戸を押し開ける。母は先にお前の手を乗せてと、母の細くなった指が私のつめたくまっすぐで凍った様な指の上からそっと押さえ、「こんなに冷たくなってご免ね」という母に、「大丈夫」とそれしか言えない。痛さに負けて涙が出てしまう。母もつむった目から涙があふれている。私はそっぽを向いて片手で涙を拭いた。私は一日中何回も布をぬらしてやったが、今思えば母のあの熱なら、もっともっと冷やしてもらいたかったろうと思う。食糧も無くなり、十里程奥地へ行く事になり、母と同じく熱を出していた長兄の二人に父と三兄が付き添う為に残り、妹と私を次兄が連れて皆についてゆく事になった。行く途中「誰かが靴を脱いだぞー」と言う声がした。見ると妹のものだった。つめたく感覚が無くなっている足にはかせているうちに一番ビリになってしまい、ついに皆についてゆけず途中の家で引き返す時、満人が家へ来て手伝ってくれれば食べさせると言われ、そこに落ち着いて、母達も呼んでくれたが隣り部落になってしまった。次兄は大人にまじって一生懸命働き、アンペラを編んだ指先から血が出ていた。妹はお母さんの所へ行きたいと毎日泣き、そんな時兄さんの仕事場へ連れて行って、「私達の食べる分まで血が出ても頑張っている兄さんに泣き顔など見せてはだめよ」と言って、小屋の影で一緒に泣いた。十二月初め頃、前居た入白で来る様に言って来たので、おじさんの家族と行った。私はパイジャンの家へ、妹はヤンさんの家へもらわれて行った。とても可愛がってくれた。日本に帰れる事になった時、私はすぐ返してくれたが、妹は返さないと言われ困った。やっと返してもらった十月十五日、ナチ屯を立った。向山さんの赤ちゃんは、確かお里へ帰れる様に里子と名付けたと聞いたが、帰りの船の中で亡くなった。夜汽笛が三回鳴り、船が三回廻ると言われたが、本当に星がぐるぐる三回廻った。今は幸せに暮らす私は、二度とあの悲しみを繰り返さぬ様、心から願っています。記憶をたどって山崎正一富貴原開拓団送出本部旧中箕輪村役場内にて、第二次勤労奉仕隊が結成された。隊員十五名。南箕輪村から巣山保三君、山崎さだ子さん、山崎たつ子さん、那須野さん、自分以上五名。四名は同年生で時十五才、自分は十九才。時昭和十八年五月二十五日、朝本部にて集結記念写真をとり、松島駅より出発。下関より興安丸にて釜山、そして満鉄ジャラン屯駅より団出迎えのトラックにて団に到着。時運転者関団員であった。一ヶ月の農事作業にあたり、一日一円の賃金の支給を受けた。食事は米三分、ジャガイモ七分位の割であったと思う。肥料いらずの大原野でのびのび働く姿こそ天下であった。帰路にあたり、もはや駅弁は少なく、買い求めるのに大変苦労をした。新京にて三時間位の待ち時間があったように記憶しているが、それ以上あったかもしれないが、駅にて軍の方に食堂をたずねたらこの辺には無いと言われ、そのあと長野県のどこから来たのか聞かれ上伊那南箕輪と答える。その人は伊那御園の金子さんで、大変懐かしく話され、皆は何時の列車に乗るかと言われ、十一時と答えたら、何人か、五人、それでは弁当は心配してあげるから、この場所に十一時十分前に居るようにと言い、立ち去って行きました。自分も喜びのうちにも半信半疑でその場所に待っていたところ、五つの弁当を持って来てくれ、元気で又会うと言って早く列車へと、ろくなお礼も言わずに別れ、列車に飛び乗った。列車の動くに、その辺りにはあの人は見えなかった。列車で五人で一つずつわけ、開けたら白米のオニギリ三ヶ入っており、五人で釜山まで食べずにとって置こうと申し合わせ、駅弁を求める事に一生懸命飛び廻り、どうにかつなぎ釜山近し(新京-釜山間の時間は不明であるが相当なもの)。さて皆で食べようと開いて見たら、何とニギリの形は無く、一平になって糸を引いているではないか。空腹で堪えてきたので誰も何も言わずに食べてしまった。今日なら見向きもしないだろう、当時の食糧の尊さを物語るものでしょう。以上道中苦と笑の中で無事帰家致しました。七月二日。一ヶ月の当地の団在で現実に見て来た私には、あの広い広い地を忘れる事が出来ず、再び渡満する事を決意し昭和二十年三月入植し、七月応召、鉄レイ七一二部隊に入隊。一ヶ月にて終戦。八月末部隊解散し一旦北上、四平街にて一ヶ月満鉄職員にお世話になりしも、その中に長野県人が七名、合わせて八名にて、南下を決して夜間の列車に乗り、フランテンで進行せず、ソ連兵の言に従いやむをえず歩行に。石河にてソ連兵に捕まり


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