満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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鉄棒につないでおいた馬が全部ぬすまれていた。日本へ帰るにも、もう荷物を持ってゆけない。どうするのだろう、とても困った。足がいたくて歩けない。御飯も食べたくない。でも母に「少しでも食べて又寝なさい」と言われた。皆荷物の片付けに忙しい。学校の廊下の片側へ、ぎっしりとうず高く積み上げられた荷物の山。私達は中二階に寝起きする様になり、何日かが過ぎたある日、ソ連兵が五・六人銃を構えて入って来た。「ドラッシードラッシー」と大声で言っている。私と妹は怖くて母の手を握って息を潜めていたが、こっちを見たソ連兵は、ずかずかと私達の方へ来て、母の着ていた毛糸の袖無しを脱げと言う様に銃に引っ掛け引っぱるのだ。母は私達の手をそっと放し、静かに脱ぎ渡したが、まだ有るのを出せと言うらしく、廊下から何枚かの毛糸の服を渡した。その中に私の大好きな黄色の母の手編みのセーターが有り、私は憎らしくて睨みつけた。其の日から毎夜ソ連兵が来る様になり、娘さんや若いお母さん達は皆坊主になる方が良いという事になり、その前に演芸会をする事になった。私も従軍看護婦の唄を歌う様に言われたが、順番が解からなくなったり、忘れてしまった所があったりして、人に尋ねたがだめだったので歌えなかったが、皆思い思いに楽しく過した。その頃母は足を痛めて床に付いていた。女の人達は坊主頭で、高等科以上の男の人達は特攻隊となり馬賊や土賊と戦うのだと言われた様な気がする。ソ連兵は良い物は見つけしだい取り上げて行った。ある朝目がさめると、皆いつでも逃げられる用意をする様に言われた。昇り始めた朝日を受けた山の上はキラキラ光るもので一杯なのだ。どこを見てもキラキラしている。獲物を持って囲んで居るのだから、いよいよの時は逆らわずにしていなければならない。人を殺す事など何とも思っていないのだからとよくよく言われた。だいぶやせてしまった母を父がおぶった。母は私は足が痛いから置いて行ってくれと言うのを、父は赤ん坊をあやす様に、頼むからおぶさってくれと言った。この時父ってこんなにやさしい人なんだなと初めて知った気がした。防寒具を風呂敷にくるみ持ち、妹の手を引いて、「お父さんの後に付いて来い、離れるんじゃないよ」と言われる声に一生懸命付いて行ったが、なにしろ風呂敷包みが大きくて歩けないので、妹の手を放し「姉ちゃんの服のすそにつかまり離すんじゃないよ」と言って、両手で荷物を持つと前が見えなくなり、父も人ごみの中でどこへ行ったか解からないが、人の流れに流されるかっこうで外へ出て何歩か歩いた時、鉄砲が鳴り、ものすごい喚声が上り、私達は運動場を逃げまどい、ぐるり囲んだ匪賊達は凄い勢いで輪を縮めて来る。運動場の中ほどに皆かたまった。叩かれ打たれる者、荷物を取られる者、着ているものをぬがされる者、私は妹を荷物の上に座らせ抱合いながら、今度は自分たちがやられる番かとびくびくしながらあたりを見回したが、幸い中の方だったので助かったが、外側の人達は荷物を取るためにごぼうぬきにされるのを、皆でたけの子の様になりかばいあった。夕方になって、ぶんどり品をタークルチャーに山ほど乗せて、何台も並んだ馬車がラッパや笛、タイコ等鳴らしながら帰ってゆく。それが祝いの時の音楽だそうだ。憎らしかった。「もう大丈夫だぞう!」と声が上がり、それぞれに部屋へ入っていった。力尽きた足どりで帰ってゆくと、隣の部屋のおばさんが腰巻一枚にされ、背中じゅうムチで射たれミミズバレがして血が吹き出し泣いていた。歩けないので母の様に置いていってくれと言ったのだろう。もうどうしても置いてゆく事は出来ないのだという事を母によく解かってもらう。それからというもの、昼となく夜となく匪賊・馬賊・土賊・ソ連兵・それに私達を守ってくれるという八路軍も、よく馬賊に早変りをして何でも持って行った。ある晩「特攻隊の人達がつかまったのですぐ逃げろ」と言われたが、父がいない時だったので母は「お前達だけで逃げなさい」と言う。皆が逃げた窓へ妹を乗せ「飛びおりろ」と言ったが、こわいと言って泣き出してしまった。外は真暗だ。私は必死で妹を窓から突き落とし、母をその窓へはい上がらせて、私は隣の窓から飛びおり、母の足を持って引きずりおろし、母をおぶった。早く走ってゆきたいが、足が思う様に進まない。母をずり上げずり上げ、ようやくきび畑へ入った。そのとたん鉄砲の弾がビュンと飛んで来た。足元の土が炸裂し、石や土が足に当る。その痛いこと。思わず母を落してしまい、二度おぶり直し歩いたが、母は「もういいよ、死ぬ時は死ぬんだから」と言って弾から私と妹を引きよせかばった。今度の弾で死ぬのかな、今度はダメかな、と思って長い時間そうしていた。まるで私達だけをねらってうっている様な気がした。「お母さん」と呼んでみる。「大丈夫よ」と母が言う。そのうちに静かになって来た。誰かがごそごそごそごそと近づいて来る。「大丈夫か?」と聞かれ、日本人だとわかった時とてもうれしかった。母が「はい」と言ったら、「静かになったな」と言って、またごそごそと他へ様子を見に出て行った。そうしているうちにだんだん皆が出て来た。母は「今度は歩くから」と妹の手をかり、私の肩につかまり、そろそろと歩いて部屋に帰った。ひそひそと話す声に目が覚めた。父が帰って来たのだ。「お父さん良かったね」、私は声がつまった。団の偉い人達はつぎつぎにソ連兵に連れて行かれてしまったと聞いていたから本当に嬉しかった。父は「富美子、お母さんや麗子をつれて逃げてくれたんだってな、ありがとう」と言って抱き寄せてくれたが、「息が出来ないよ」と言って皆で笑った。幸せだなあと感じた。だけどすぐ父は「まだ何人か捕まっていたが、皆で目くばせをして一緒に逃げ、お父さんはすぐ角を曲がったが、鉄砲の音がしたから、まっすぐ行った人達はどうしたかなあ」と言った。その中に知野先生も居たと言った。明るくなって何人かの犠牲者が戸板に乗せられ帰って来た。その中に知野先生も居た。昨日まで元気だったのに…涙がどかどか流れた。やがて部屋の中がガランとしてきた。荷物らしき物が皆んな無くなったからだ。ふとんも無く、ヤン草を山ほど入れた中にもぐり込んで寝る。豚みたいだと思って寝たら、以外にふんわりと暖かだった。私達は何もする事が無い。学校も無い。とにかく匪賊が来た時、いかに早く上手に逃げるかという事だけだった。娘さんたちは、いや若いお母


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