満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.32

帰れないと思って半分諦めて、鉄道路線の溝堀の排水工事の明暮でした。鉄道レールの六十センチぐらいのがつるしてあって、それをたたいて五時起床、地獄の鐘が鳴ると誰いうともなしに目をこすりながら食堂に行く。道中頭上に北斗星が大きく輝いている。家族も無事でいたら遠くできっと北斗星を眺めているでしょう、北斗星よ無事でいると伝えてください、と何度か北の空で北斗星に頭を下げ、望郷の念で一杯でした。三百十三収容所に入って六ヶ月くらい経ってから、収容所長の説明によれば、当収容所は他の収容所に比して作業成績は非常に良く、内地に帰してくれるからとの事でした。昭和二十二年の八月(東京ダモイ)内地帰るが決定。帰りの列車にシベリヤの野に一面にきれいに咲いている花を飾りて、花列車にて送ってくれた。途中何十万とも知らぬ兵隊が働いていて、一足先に帰るに心引かれて申し訳なく手を振って別れを告げて、ナホトカまで三日がかりでノロノロ列車にて出て来た。船の来るまで一日待った。便所は海岸にありて、用事をすませて波が押し寄せてきれいに始末をしてくれる。これが当時の水洗便所の第一号であったでしょうか。朝病院船大拓丸が迎えに来て、久しぶりに見る黒い髪の看護婦さん、本当に懐かしく、今度こそ内地に帰れると思った。当時日本は軍国主義の政治故に軍人何百万とも知れぬ犠牲者を出し、又異国の岡で望郷の念にかられ、帰りたくも帰れない生きた犠牲者が、罪も無い婦女子が沢山いると思う。又、広島・長崎の原爆の犠牲者等々、こうした悲劇を二度と再び繰り返さぬよう、子孫末代に伝えて、平和な日本が、平和な世界が、永久に続くよう心から祈る者です。完泉平部落倉田三郎五月七日夕方入白へ着く白鳥富美子(旧姓市川)夕日が真赤で大きくて、山のかなたへおっこちてしまう、という感じにしばらく見とれていた。おじさんの家へ落ち着く。私達の学校は河山屯に有り、何キロあるのかだいぶ歩いた。山の尾根を歩く時、よくノロに出合った。鹿によく似て可愛いい顔をしている。赤ちゃんのノロを見つけて何度もつかまえ様としたが、ピョコンピョコンと飛んでは後ろを見る。つかまりそうで一向につかまらない。「ノロどころではない、あれはハヤだ!」などと言ったものだ。ユリがとても可愛いかった。クルリッと花びらを丸めて一面に咲いていた。学校は一年二名、二年四名、三年は妹の麗子一人で、四年は三名、五年四名、六年四名だった。桐原先生は半農半教とかで、先生が居ない時は上級生が下級生の解からない所を見てやった。兄達は高等科と青年学校へ行ったと思う。七月の中頃から音楽の練習が始まった。知野さんと云う青年学校の人がアコーディオンを引いてくれた。八月十五日に音楽会があり、私は従軍看護婦の唄を歌う事になり一生懸命習った。八月に入って夏休みになり、しっかり習ってくる様にと言われた。八月十五日、一番上の兄、昭兄さんに入営通知が来た。十八才の時だった。本部まで送って行った。そこには知野先生もたすきを掛けて居た。数人の人達とともに兄達は見送られて行ってしまった。「東京に居る家族と疎開していた私とが満州へ行けば家中が一緒に暮せるからとここ迄来たのに」と思うと淋しくて悲しくて涙がポロポロと止らなかった。八月十八日はおじさんの家の小麦刈りに皆で手伝いに行った。向い側にあるキビ畑へ男の人が二人入ったきり出て来ないといい、誰だろうと話しながら仕事をしていると、夕方になって家から「すぐ帰って来い。仕事はやりかけでも良いから静かに帰って来る様に」と言われて家へ帰ってみると、昭兄さんがゲッソリした顔で寝て居た。私は病気にでもなったのかと思い母の顔を見ると、母は「静かに」と口にひとさし指をあて、私達を戸外へ押し出して「日本が負けたらしいのよ」と言って涙ぐんだ。負けたらどうなるのか私には少しも解からない。考えた事も無かったから…。母に問うと母にも解からないと言う。薄暗くなり始めた頃、前での山から満人が五・六人パイジャンの家へ入って行った。兄達は河山屯の人達だと言った。父は昭兄さんと一緒に帰って来た人をおじさんと本部まで送って行ったきりまだ帰って来ないので、母は匪賊だといけないから家から出ない様、又戸締りをきちんとしなさいと言った。ランプの明りで夕食を済ませる。誰も話をせず、身体中耳にして少しの物音も聞き漏らさぬ様にしていた。昭兄さんの話では、チチハル方面は真赤に燃えていて、ソ連軍が手あたりしだいバンバン撃ちまくり、日本兵の姿が見えなくなったので、キビ畑で様子を見ていたが、日本が負けたらしいから、昼間は畑の中で寝て、夜になると畑からヤン草の中へ、又畑へと、道を見失わぬ様にと一生懸命走って来たと話してくれた。母は「ここのパイジャンは偉い人だから匪賊は来ないよ、安心しなさい」と言々、お勝手で遅くまで何かして、父の帰りを待っている様子だった。朝食の時、父は今日はどこへも行かずに自分の必要な物を整理して置く様に言って本部へ行った。二十日夕方伊南部落へ。タークルチャーに出来るだけの荷物を積み向う。後に残る物はパイジャンに分ける様にと云って出た。伊南開拓団には一週間程居たと思う。それから九州の天草開拓団に行く事になり、母達は忙しそうに夜おむすび等を作っていた。朝暗いうちに出発。日中は暑くて暑くて、お昼も少し休んでおむすびを食べただけで又歩いた。荷馬車の後に付いて歩く。足が棒の様になった妹は、ついに「歩けない」と泣き出してしまい、荷物の上に腹ばいに乗せたが、疲れて寝てしまい何度もころげ落ちそうになった。夜も歩いた。星はとても美しかった。天草に着き、どうやって寝たのか覚えていない。母に朝御飯だよと起こされた。外の


<< | < | > | >>