満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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場所を探した。九月十三日、通訳を通じて、皆さんはシベリヤで一ヶ月間働いて東京に帰れるから、一ヶ月間の食糧を持って明日出発との事であった。明日五列縦隊に並び、寺坂少佐部隊長だけ乗馬にて、ソ連監視兵は乗馬にて、他は全員足でシベリヤに向って三百キロの行軍をした。ソンゴーに着いたら兵舎は焼かれ、駅も焼かれていた。又陣地近いアイグンの坂道には、日本兵の死骸が五十七戦車の下敷きとなり、のしイカのようになった無残な姿を何人か見て通る。又所々牛馬の死骸が横たわり本当に驚いた。道中病人又は弱った戦友は力尽きて倒れる。足の裏には大きな豆が幾つか出来て、自分が歩くのが命がけ。それでも何とか行ける所までと、弱い戦友を真中にして背を組んで行く姿は哀れであった。又監視兵は日本将校の太刀を馬上から振りかざし、(ダバイスカレイダバイスカレイ)早く歩きなさいと追い立てる。半日に一度小休止があり、小休止と声が掛ればその場に倒れるようにしてすぐいびきをかく。出発の声は聞こえず、たたき起こされる。我々開拓団出身者は鍛えた体故に平均丈夫であった。道中倒れた戦友は馬車に乗せて来るという流言があったが、その後不明である。ソンゴーに一泊して朝出発の時に、中国人が柳の木で編んだ平たいざるの中に、中国特有のギョウザ・饅頭等山に積んで大勢売りにきた。腹が空いてのどから手の出る程食べたいが、金は一銭なし。武装解除の時に金は全部取られ、そこへソ連兵が来て、足で饅頭の入ったざるを下から蹴り上げ、饅頭・ギョウザは四方に飛んだ。それを日本兵がよってたかって拾って食べた事もあった。黒河から黒竜江を渡ってソ連領ブラゴエに着いて、やはり野宿で朝。十月一日には寝て着ていた一枚の毛布の上に真白に雪が積もっていた。そして戦友二人が凍死した。又寝ている間に毛布をはぎとられた戦友もいた。シベリヤ線貨物車に乗せられ、毛布をかぶり、疲れ果てた体を横にして、今度こそは屋根の下に眠る事ができるだろうと戦友と語り合う。歩くような速度の貨物にゆられてブラゴエの駅を出発。雪の中を靴を履かずに裸足で十二・三歳の子供が細い鉄棒の先のまげたのを持って汽車を追いかけて、何も知らずに眠っている戦友の外套・毛布をはぎ盗られ、本当にみじめであった。これを見るとソ連も物資が不足していた事でしょう。暫くしてエビエストコーヤの百十六収容所に着いた。寝台は二段に成っていて、生木で急造の寝台で、こちこちに凍っていて、暖房も急造にて本調子でなく、毎晩戦友と抱き合って震えて寝ていた。外は内柵外柵と分れて有刺鉄線で包囲して、十メートルぐらいの高さの監視場があり、そこに機関銃を構えて歩哨が監視している。食糧は二百五十グラムのコーリャンパンに塩鮭をそのなりかじりて、塩辛いから寒いのに水をがぶがぶ飲んで腹を膨らませて、小使の夜は御百度参り。最初の作業はメトラーという作業で、伐採した残りの木の枝を焼いて片付ける作業で、これは大変楽な作業でよいと内心思った。皆んなで喜んで火を焚いてあたっていたら、現場監督が棒を持って、大変怒って、スタトコイヨツポイ・ブハマーチと言って、火を焚いている兵隊の所を追いまわして歩いた。火にあたらず全部の枝を焼いてしまいなさいということであった。ある時はコルホーズ農場に作業に行き、凍った玉菜を食べたら、甘味があって大変美味だったから持って帰り、作業に行かない戦友と一緒に食べたいと思って持って来たら、収容所の入口で全部取られてしまった。雪の中のレンガがパンに見え、凍った馬糞が馬鈴薯に思えた。食料は小鳥の餌ぐらいの感じ、不完全な暖房のきかない収容所ですっかり体を悪くして痩せてしまった。作業は引っ張り出される。作業にきても能率は上がらない。監督はご機嫌が悪い。栄養失調・発疹チブス、入院しては死亡死亡と、流言で誰いうともなく、寺坂部隊でなく殺人部隊であると名前が変った。そのうちに朝礼の時に見習士官が十名の名前を呼んで、その十名の中に自分も含まれていた。自分は何か悪いことでもしたのかと大変心配したら、見習仕官が優しく、皆さんは体が弱っているから労働の軽い所へ行きなさいと言われて、馴れた戦友と別れるのは辛いけれども、上官の命令で仕方なく、監視兵に連れられて、十名と一緒に百十八収容所に連れて来られた。ここは各収容所から弱者ばかり集めて、軽作業にて、食事は量は少ないが毎日肉飯をくれて、暖房もよく室内はポカポカ。週に一回タバコの配給。砂糖もあり、風呂もあり、今までの収容所に比すれば天国のような所で、三ヶ月ぐらいですっかり健康になり、そこへ医者が来て一級・二級・三級と等級を付けて、各収容所に送られた。一級・二級は重労働、三級は軽作業。自分は三級にてカラドオフの百二十収容所に送られ、監督の家の薪割・清掃・小使さんをした。監督のマダムが自分にマダムイエースといわれ、イエースといえばハラシヨー(よろしい)、マネキンイエースといわれ、イエースといえば(子供があるか)大チンハラシウー(大変よろしい)といった。収容所に帰る時は必ずパンとか砂糖をくれた。又タバコの吸殻があれば自分は吸わないがどんな短いのも戦友に持って帰って皆んなに喜ばれた。六ヶ月ぐらいで二級になり、鉄道工事の延長作業にて、発破中隊が凍った山を崩して、それを大型なクレーンが貨物に積み込み、その土砂おろし作業をやった。その後六ヶ月ぐらいで体調を悪くして、クレゾールという病院に入院。院長は独ソ戦で子供二人を兵隊で失った六十ぐらいの太った女医で、大変良い人でした。朝の挨拶がズラースチー(おはようございます)ご機嫌いかがですかと一人一人に挨拶して歩き、自分が手術した患者には自分の子供みたいに名を呼んで頭を撫でて歩いた。又ソ連の看護婦が患者に対し態度が悪ければ叱って歩き、本当に良い院長さんでした。又病院内で日本人の作った劇団ありて、脚本を書いてハバロフスクに送りて、許可が出れば一ヶ月に一回くらいでやってみせた。嵐寛充郎の弟さんも居り、婦人の着物が無いから白地に絵かきが絵を書いて、兵士の仕立屋が縫って着物を作り、レンガを粉にして口紅・頬紅を粉にして化粧して女になり、病人の兵隊を一生懸命慰めてくれた。それを許してくれたソ連、また国際赤十字の運動もあった事でしょうが、本当によかった。その後すっかり体も良くなり退院して、コンスモルスク市の手前、ヤブドニヤ地区三百十三収容所に移動になり、こんな奥まで来てはもう内地に


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