満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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分は山口三郎連さんと二人で、関さん・北川さん等帰ってくるまで、山口さん運転士、自分は助手として、二人で団の連絡に歩いた。少人数の淋しい毎日であった。約一ヶ月過ぎ、基幹先遣隊の方たちはそれぞれ花嫁さんを連れて帰って来るという便りありて、山口さんと二人でジャラントンまで迎えに行き、日満旅館に一泊して帰って来た。富貴原開拓団村上部落も花嫁が来て活気付いてきた。それとすれ違うように自分も内地に家族招致で帰った。中箕輪役場の富貴原開拓団建設本部で倉田・向山・鈴木・酒井・野溝と五組の集団結婚式が行われて、四月下旬に帰って来た。村上部落に落着き、各班に分かれて、また後からどんどん入って来る。後続部隊も各班に配属されて大変賑やかになり、又第二の奉仕隊が内地から大勢来られ、益々活気付き本当に良かった。奉仕隊が帰った後、収穫祝を兼ねて、陸と川に分れて獲物を取りて、落ち着く先はアルン川の手前、ウースーメンの川のほとり、花嫁さん等と炊事班は鍋と調味料を用意して、タアクルチャーにそれぞれ分乗してウースーメンに出掛けた。北川さん等は鉄砲組でカモ撃ち、自分は本田さんと釣竿を持って川を下った。暫く行くと大変重量感のある手応えがあった。驚いて見ると大きな魚がかかっている。本田さんを呼んで十五分くらいかかって、魚の弱ったところを本田さんが川の中に飛び込んで、両手ですくい上げるようにして上げてくれた。自分は六十センチもあるサケを両手でさし上げ、思わず歓声を上げた。その時の魚は十六切もあって、皆さんと一緒に喜んで食べて頂いた事は忘れることは出来ない。あの時に本田さんがいなかったら魚は逃げたでしょう。十二月下旬になって泉平の部落も出来上がり、壁もオンドルもまだ乾ききれず湯気が立っている中を、村上部落より引越しした。翌年の四月、長男が生まれ、泉平は南傾斜で水が浅い所よりこんこんと湧き出て、最高の良い所でした。春になって後続部隊が来て、部落一杯となり、夢のような一年は去った。本部の会合は午後から会合、終えて帰る頃は真暗で、大和部落を過ぎた頃いつも狼の遠吠えを聞いて、自分を乗せた朝鮮牛の引くタークルチャーも壊れんばかりに家路を急いで、本当にあの頃は気味が悪かった。四月だと思うが、大和部落の山口三郎連さんが公用にて那吉屯に行く途中、アルン川を馬で乗って渡る内に落馬して流氷の下になり、帰らぬ人となり、馬だけが中国人の部落に辿り着いたとの情報が入り、今日はその実地検証をやるから各部落から出てくれとの事で現地に行けば、現住民代表者・区長・村長級の方がみえ、馬をつかめてくれた現住民の方と中国警察官・日本警察官立会いのもとで、事故死か自殺か他殺かわからず、馬をつかめてくれた現住民の方は一番この事件には近い証人として、現場で各代表者の前で、馬で山口さんが渡る所を見たかどうかを聞いたところ、メイカンリョウメイカンリョウと言って警察官の問いに耐えかねてか、流氷の川に飛び込み氷の下になり帰らぬ人になってしまいました。川の氷もとけて五月頃だと思う。蒙古人がアルン川を舟で下りしな山口さんを見つけてくれて、山口さんは防寒外套のポケットに両手を入れたなり、又口にはマスクをしたなり、川の砂の中に横になっていたとの事。又中国の方も付近から発見され、二人の犠牲者を出した悲しい事件であった。この事件に相前後して農耕が始まりかけた時、泉平の裏山から野火が延焼して来た。屋根に水をかけて用意していたが、強風と火の勢いが強く燃え移り、泉平部落はあっという間に焼野原となり、一番奥に住んでいた松沢さんが心配だったが無事で何よりであった。部落は全焼しても、幸いにして人には異状なく、不幸中の幸いであった。自分は馬二頭のうち一頭は焼死、一頭は現地人に貸してあって無事で、牛は小屋から飛び出し、背に大やけどして苦しさに大和部落まで飛んで行き、大和の山口清勝さんから豆油を塗って頂いて助かった。又子牛は外で遊んでいて助かった。親牛は農耕に使えず、親仔で遊んでいた。三ヶ月くらい放牧のしっぱなしで、暗くなって親仔で帰っても小屋なく哀れであった。又村上部落の安藤さんの励の言葉に感激した。又他の部落の方々の一方ならぬ御世話様になり、急いで中国人の家を借りて集団生活に入り、農耕も共同経営にて作も大変大きくなり、七月十七日頃だと思う、団長以下十三名に召集令状が来て、自分も十三名の中の一人。家は焼かれ、着る物はなく、食糧も乏しい他国の空で、妻子を残して戦場に行く若者の気持ちは悲愴なものであったが、後に残った女や子供は尚それ以上の思いをしたことでしょう。後ろ髪を引かれる思いで出征し、団の皆様が歌って送ってくれた思い出の歌。「明日は御征かおなごり惜しや、大和男子の晴れの旅、朝日を浴びて湧き立つ雲の、君を見送る峠道」。北安の六八六連隊の三七三四三寺坂部隊に入隊して、北安の陣地にてソ連の五十七戦車に対する体当り戦術の明暮でした。それから八月十九日だと思う、二宮中隊長は陣地にて、ソ連軍は黒河・アイグン・ソンゴウを落して、明日は北安に向って攻めて来るから、諸君は自分の入る墓穴だからしっかり掘れと命令が下った。明日ソ連戦車が進撃して来たら、墓穴から急造爆弾を抱いて五十七戦車に体当りの覚悟で明日を待つ。朝早く重大ニュースが入り、内地は広島・長崎に原爆を落され、大変な犠牲者を出して、八月十五日に敗戦との事。敗戦を知らずに二十日まで陣地にいて、ソ連飛行機が陣地上空を飛び、「皆さん戦は終りました、早く東京に帰りたくはありませんか、家族が待って居ります、無駄な抵抗はやめて降伏しなさい」とビラがまかれた。最初は本当に出来ず、実々敗戦なら最後の戦を公安嶺の陣地でと若者将校は主張したが、天皇の命令との事でついに降伏した。武装解除され、北安の飛行場の格納庫の中に二十日間監禁され、北安付近の開拓団はソ連戦車進入と共に自決したとの情報が入り、富貴原開拓団も遠く山の奥、恐らく無事ではあるまいと思った。夜飛行場より脱出して何日かかっても良いから帰りたいと思ったが、ソ連兵の監視が厳しく、一人でも逃亡者が出れば全員銃殺との命令にてどうにもならず、便所に行くにも逃亡のできない見通しの良い飛行場の滑走路。又野菜不足で鳥目の戦友が出来て、それにアメーバ赤痢にかかり、夕方から目が見えず、回数の多い下痢患者を達者な戦友が連れて、監視兵が厳しく見守る中で用をすませる。二十日間という長い日数にて、飛行場の一滑走路は大便の行列で一杯でした。しまいにはどこで用を過したら良いやら


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