満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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今まで私を生かしてくれた子供。民族こそ違え自分の子供こそ、私の心の中が解ってくれる一番の頼りになる者と思います。子供もきっと待っている。私はすべての希みも忘れます、諦めます。そして新しい希望を持って生きて行きます。そして懐かしい団の皆様ともお別れします。今自分のこうして故郷を皆様と別れる自分の姿が、自分ながら哀れに思われます。私はこの一年余り、姉の家に世話になりました。この嫁は私に対し、一日なり一時なり変った目で見る事もなく、私の今までの三十何年の悲しみ苦しみをよく解って、私をなぐさめてくれました。私は心の中に本当に感謝します。世の中にもこうした暖かい心の人もあったのかと、本当にうれしく忘れません。中国にもまだまだ親身の知れない孤児や、肉親が在りながら懐かしい故郷から遠く別れて住む不幸の人がまだまだ沢山います。どうかこうした不幸の人々のために、こうした暖かい心で迎えてくれる人があってほしいと願います。長い年月の思い出は簡単に書ききれるものではないと思います。只戦争がどんなものかだけが一番の思い出と思う。思い出倉田三郎富貴原開拓団の開拓史を作るから協力してほしいとの会長の平松さんから連絡にて返事はしたものの、三十八・九年前の事はなかなか思い出せず、一番印象に残っている事のみかいつまんで、渡満から復員まで、記憶を巡りて書きたいと思って居ります。開拓者として渡満を決意したのは昭和十七年六月、当時日本は総力を挙げての太平洋戦争の時でした。衣類・食糧を始めとして、主な物はすべて配給制にて、かやの吊金を始めとして、お寺の吊鐘まで供出して鉄砲の弾を造っている時でした。若者は徴用に、軍籍の在る者は軍隊に召集されて行く時でした。自分も徴用か軍隊かどちらかに行かなければならないと覚悟していた矢先、富貴原開拓団の補充先遣隊として行って頂きたいと西箕輪の役場の尾崎さんより話があり、色々と考えた末、国の為なら渡満して食糧増産に尽くそうと決心して、諏訪の八ヶ岳修練農場で一ヶ月の特訓を受けた。起床五時、冷たいマス池の中に飛び込んで冷水摩擦、大和働体操後、農場に堆肥かつぎ、あるいは下の原村まで駆け足。いずれも農場長先に立っての毎朝の行事で、地元から村会議員・青年会代表・新聞記者等毎朝の行事は一緒でした。特訓中召集令状が来て、何人かの人々を全員で送ってやりました。訓練後は一人敦賀港から、北朝鮮牡丹江を通りジャラン屯に着いたら、基幹先遣隊の関さんと北川さんが富貴原開拓団名入れのトラックにて迎えに来てくれて、道中キウシャンジャンを通ったら大阪の轉業者開拓団のハイヒールを履いた娘たちが手を振って我々に挨拶してくれた。本当になごやかでよかった。又中国人部落を通れば、富貴原開拓団トラックを物めずらしそうに眺めて、蒙古犬が物凄い勢いで吠えてトラックの後を追いかけて来た。ホウランズを通り、前川サントン近くまで来たら、基幹先遣隊の方たちがエンバクの青刈を刈っていて、岡さんを始め皆さんが自動車の所まで迎えに来てくれた。その晩は団長先生を始めとして歓迎会をしてくれて本当に嬉しかった。又、基幹先遣隊の方々は訓練されただけあって、気持ちの練れた人ばかりで兄弟同様にしてくれて、激しい労働の中、又中国人部落に少数の日本人で淋しかったが、非常に楽しかった。まもなく内地から奉仕隊が来るからという事で、寝泊りする家の清掃、男女別の便所造り、食糧の調達等なんとなく活気付き、何人来たか覚えがないが男女大勢の方が来てくれて、農作業・炊事まで奉仕してくれて、炊事当番の男子に女子二名ついて色々の料理を作ってくれて楽しかった。又、昼休みを利用して、北川さん・小笠原さん・奉仕隊の方と川に魚とりに行き、二時間ばかりで馬穴一杯どじょうをとって来て、炊事班は今夜はどじょう汁を造り、奉仕隊の皆さんに喜ばれた事。又、北川さんとカモ撃ちに行って、沢山取って来たカモと炊事当番の奉仕隊の方、そして北川さん、富貴原開拓団本部の看板を背景にして北沢先生が記念写真を撮ってくれた。その晩はカモ汁とチャン酒にて奉仕隊の方々と一杯飲んで大変良かった。川山屯本部の農場の手前にドラムカンの野天風呂ありて、野天風呂に入るのも初めは大変勇気のいるものだが、あんな入り心地の良いものはなかった。麦刈りもコーリャン畑も片付き、馬鈴薯も掘りてもろの中に入れ、又脱穀場の下造りも出来上がり、寒さが来て、水を掛けて凍ればもう大丈夫。一通りの農作業が終る頃、那吉屯の天草で開拓団の演芸大会ありて、丁度奉仕隊の皆様が来ていて、その中に伊那節を歌ってのど自慢全国大会で優勝した山口清勝さんが出場してくれて、又基幹先遣隊の中にギターの名人北川さん、尺八の名人小川さんと、関さんの奥さんの美声の名コンビで、とねの御日さんを歌って優勝し、富貴原開拓団は優勝旗を高々と掲げて帰って来た。その晩はあの厳格な団長先生も優勝の祝酒に酔い、毎日行う「みたましずめ」も忘れ、プレプレプレと言って何か野球の応援でもするようなしぐさをしたと思ったら、万歳で酔いつぶれた。あの感激は生涯忘れる事は出来ない。来年度来る花嫁さん・後続部隊の食糧確保が出来て、奉仕隊が別れを告げて去って行った後の火の消えたような淋しさ。冬ともなれば何処を見ても雪の原。夜になればたまたま狼の遠吠えや原住民の牛・ロバ・犬のかん高い鳴き声が聞こえ、原住民が(ランシウライ)狼が来た、早く鉄砲で撃ってくれと度々やって来る。警備銃で空に向けて撃つと、馬・犬・ロバの声も静かになりて、狼が遠くへ逃げていった様子が良くわかり、原住民が(シエシエ、タアタアテンホウ)と言って大変に喜んでくれた。ある晩は匪賊が近くに現れたとの情報が入りて、団長先生指揮のもとで、誰と誰は東側、誰と誰は西側を守れと命令され、警備銃片手に緊張の夜を明かしたこともあった。その長い冬も残り一ヶ月という時に、基幹先遣隊の方たちは家族招致と遊説に内地に帰って行った。自


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