満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


>> P.28

た。多くの家族がそれから先どんなに食べ物に不自由するのか。倉庫の食糧の山は火の玉となっていました。第一部落の家屋は一つも見えなかった。みな焼き野原でした。最後の花丘峠の上に立って一休み。振り向いて団にもおさらばです。あの太平溝の平野には「俺も行くから君も行け」元気な唄声も無く、静かに静かに消えていた。そしてまた歩き始めた。夜の二時か三時頃かもしれない、一行は紅花架子に入った。突然列は止った。顔を上げて見たとたんアッと驚いた。それは道傍にずうっと並んだ原住民の手に手に持った支那鎌の光が目についた。ハイラル方面から逃げて来た日本兵の話にも聞いた事もありました、支那鎌で何人かの人が殺されたのを見たとの事を思い出しゾッとしました。もし蒙古警備隊の人がいなかったならば?…どうなった事か、二つの団の全部があの場にみんな殺されたのではないでしょうか。そして夕方、様々の事にて那吉屯に着いた。一日一晩歩きました。それから又歩いて、やっと天草開拓団に着きました。そして富貴原は小学校校舎に、伊南は倉庫に落ち着きました。まあこれで一安心でしょう。何日かして十五日、月は違うがお盆をする事になって校庭にて二つの団員の演芸会をした。色々な芸人もあって面白かった。あれも思い出となった。その晩夜中になって匪賊が来た。みんな夢中で外に飛び出したものの外は真っ暗、夢中で私は粟畑に飛び込んだ。校舎の中がはっきり見えた。鉄砲の弾が頭の上をピューンピューンと音が飛び、子供を腹下にしてねた。明け方近く、敵はラッパを吹いて引上げていった。そのあと校舎に帰った。私たち何と二度目の褌です。何もありません。つめたい板の間に敷く物もなくなりました。夕方になって青年学校の生徒の刈った草、それは炊事用に刈った草です、それを運び込みました。校舎の中にそれを敷き、其の中に寝るのでした。でも上に掛けるものはありません。着の身着のまま。そうした中で食べ物もなく、馬鈴薯の中に幾つぶか見える粟のおにぎりが一人に二つずつ一日二度。日一日と寒さは加わり、校舎の中はだんだんと人も少なくなっていった。一人死に二人死に、老や若が病で栄養不良で死んで行った。十月二十九日二度目の匪賊。それはその前の日、夜中誰にも知れない様伊南団は礼蘭屯に出てしまった。そのため富貴原もと二十九日と決めた矢先、朝になって見た所、校舎は全部匪賊に囲まれていた。そして私達は追われる様に庭に出た。そして脱穀場に追われ、全員そこにに坐らせられた。その時です、下澤のおばあちゃんが目の前で殺された。これに続いて傷ついていく人も多くなった。義妹さんもその時右腕骨折貫通でした。何人かの重傷者も何日の内に気の毒と言おうか、哀れというか、何の治療も出来ず亡くなってしまった。治子さんもその一人。負傷者に水は禁物と、亡き鈴木さんはいつも水を飲ませたら駄目いけないと、いつも注意してくれた。私は水を飲めばすぐにも死ぬような恐ろしさで、水、水と叫ぶ治子さんの声が今でも耳の底に残っている。その水さえも充分飲むことも出来ず、何の治療も出来ず苦しんで、若い命も一週間位で散ってしまった、恋しい母の名でさえ一声もなく亡くなった治子さん、すまなかった、どんなにか母が恋しかった事だろう。哀れな生活はまだ続く。毎日毎日現住民は校舎の中を荒しに来る。そして一枚一枚取られていった。寒さも日増しに強く、日中は日あたりを見つけて暮した。十一月に入って、たった一人の自分の味方、たった一人の頼りにしていた吾が子も、僅か四・五時間の間に失ってしまいました。夢中で叫ぶ母の声にポカッと目を開いてくれた。しかしこれも救う事も出来ず、私の手から去って行ってしまいました。悲しかった。私は本当に忘れる事が出来ません。こうした二人を亡くしてしまった私には責任感が思われた。それはお姑さんに対して、たった一人の娘を、戦争とはいえ何の手当ても出来ず、これが私にはたまらなかった。二人を亡くした。私はそれ以来二人の吾が子と妹と共に大陸に生きて、末は共に大陸に眠ろうと心に誓いました。やがて寒く何も無い校舎の中に生活するのも困難となり、一人出二人出、校舎を去って行きました。何処に行くともなしに見えなくなった。責任者のなくなった富貴原も解散となってしまった。そして一冬。長い寒い冬も、大陸の広い平野に生きていた人の一冬はどんなにか苦しかった事と想像されます。私も知野を連れ、言葉のわからぬ中国人の中に一冬を過ごした。ある時は知野はいつも言った、岡さん逃げよう逃げよう逃げようと、しかし終戦当時の日本人の女、そして何処をどう歩いたか解らぬ山奥でしてそれも出来ず、待ちに待って春が来て、私は知野を連れて蒙古隊の人々に付いて那吉屯に出る事が出来た。そこで久しぶりに植田さんに逢えた。その他ものすごく大勢の日本人が北館舎に一杯だった。みんな長い冬を着るものもなく、食べ物もなく、みな青い顔をして、いかにも哀れの姿が見えた。そしてその秋引揚が始まった。礼蘭屯の町に出た。私は亡くなった人のため大陸に残る心は変らなかった。それに一人娘を亡くしたお姑さんに対して、嫁の身の私がどうして実の娘に代わることができましょう。知野だけはせめて日本に帰してやりたいと思った。幸か不幸かあの時は誰も知らなかった。多くの人と別れ、私は一人大陸に居残りました。そしてこの三十七年。心には懐かしい故里は忘れられなかった。文化大革命前の中国に居る日本人はそれは辛かった。日本鬼と言われ白い目で見られ、同じ日本人同士でも自由に日本語も話す事も出来なかった。しかし子供のおかげで元気付けられて今日まで生きて、懐かしく忘れた事のない日本にも、再度帰ることが出来ました。私はこの日本に一度来て、終戦の苦労を話したくない。日本にいても苦しかったと思う。私は只妹と清を亡くしたあの時の悲しさを話して、肉親に聞いて欲しかった。そして解ってほしかった。ただ一人悪者になりたくなかった。私は本当に亡くなった、大陸に残された三人のため、共に大陸に眠るつもりだった。自分の心がわかってほしかった。しかし今更自分の正直さにも馬鹿馬鹿しくなります。人間みんなそんな思う様にはならない。世の変りについて、一番信じた人でさえ信じてくれなかった。冷たい世の中と変っていた。この一年なつかしい日本に居て、人の情も私の思う様なものではなかった。そのために


<< | < | > | >>