満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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木は窓枠を壊して、それを燃料として燃やしました。町の名、或いは部落の名だかわかりませんが、ジャラントン・シンキョウ・チチハル・ハルピンという名は憶えています。これから今は亡き父(平一郎)が建立した石碑の文面を書いて、皆さんに見てもらいます。石碑の文面支那事変及大東亜戦争出征紀念陸軍騎兵軍曹勲七等安藤平一郎明治三十九年十月安藤國四郎長男トシテ生レル。小学校・青年学校・青年訓練所研究科ヲ経テ、大正十五年徴兵検査甲種合格。昭和三年一月十日第十四師団宇都宮騎兵第十八連隊ニ入隊ス。同年七月精勤賞。八月一日一等兵。十二月一日選抜上等兵。昭和四年水戸水馬演習特別大演習参加。昭和四年十一月三十日現役満期除隊。昭和六年十二月一日予備役演習召集ノタメ二十一日間宇都宮騎兵第十八連隊ニ応召。昭和十二年七月七日北支盧溝橋ニ支那事変勃発スルヤ暴支膺徴ノ進軍ノタメ国内ニ第三動員下令、充員召集ノタメ宇都宮騎兵第十八連隊ニ応召。直チニ出動準備完了戦旅ニツク。廣島宇品出港、玄界灘釜山上陸、鴨緑江奉天ヨリ南下、山海関・天津・北京・豊台より京漢線ヲ南下シ、長辛店正定保定城ニ立ツ時ニ詩ヲ。暴支膺徴聖戦進。幕陽遥萬里長城。彼我血涙盧溝染。我尚城頭死所得。尚モ進撃石家荘。順徳。彰徳。黄河を望ンデ一年待機。昭和十四年二月十一日部隊交代命令ニヨリ三月八日原隊宇都宮騎兵第十八連隊ニ勝利ノ中凱旋ス。勲記並勲章及判仕官待遇ヲ受ク。昭和十七年三月征旅ノ念止ミ難ク満州開拓ヲ志シ、妻トシ江長男國男ト共ニ後待男生レル。新潟出港、北朝鮮清津港上陸、一路シベリヤ鉄道札蘭屯ニ至リ、ココヨリ興安東省阿栄旗黒信子太平溝第十一次富貴原開拓団本団トシテ入植。以来四ヶ年十五町歩ヲ経営ス。折シモ昭和二十年七月二十五日関東軍大動員下令、妻子ヲ現地ニ残シ札蘭屯・斉々哈爾・哈爾浜・新京と南下、奉天ヨリ東方吉林郊外圓筒山ニ於テ関東軍軍馬補充馬廠ヲ編成シ待機スルモ、戦局愈急ヲ告ゲ、終戦ノ戦局ニ達シタリ。コレヨリ現地開拓民ハ右往左往、蒙古人宅ニ避難シ、時ヲ待ツ事二ヶ年、昭和二十一年九月現地興安東省カラ集結、引揚命令ニ依リ札蘭屯・斉々哈爾・哈爾浜・奉天・新京ト段々リレー通過。コロ島ヨリ乗船。輸送ノ船ハ後ニナルアリ先ニナルアリ、死者アリ生者アリ、幸イニ日本ノ土ヲ歩ミ得タ者何人カ、撃ツ人モ撃タルル人モ血ニ染ミテ、藪ニ倒ルル川ニ落ツアリ。平一郎記以上の様な碑文でございます。この碑が出来上がり間もなく私の父は他界したのです。最終に私の父は多くの経験と体験をしたものだと尊敬をしています。尚、この碑面に私(國男)の祖父の日露戦争出征のときの模様も書いてございますので、付け加えておきたいと思います。よろしく申し上げます。明治三十七年八年日露戦役出征紀念陸軍歩兵一等卒勲八等安藤國四郎明治九年十二月九日安藤継太郎ノ長男トシテ富田字三本松ニ生レル。幼少ノ頃ヨリ勉学ヲ好ミ、青年時代ハ富田青年結社親和社ヲツクリ多クノ青年ト交友ヲ廣メタリ。又農業ニ励ミ、上伊那郡農会理事等ヲ務ム。明治三十年徴兵検査甲種合格、第一師団高崎歩兵第十五連隊六中隊入隊。勤務勉勤、学術枝芸に熟達し、射撃徴章・善行証書・報償休暇等授与サレル。日露戦争始ルヤ予備役軍動員下令充員召集、出征ノタメ召集員松島追分ニ集合シ、徒歩ニテ下諏訪和田峠ヲ越エ、高崎歩兵第十五連隊ニ応召。直チニ出動部隊ニ編入。北海道第七師団管下室蘭駐屯地部隊ニ於テ露西亜軍捕虜兵監視ニ従事中戦局終リヲ告ゲ凱旋ス。明治三十九年四月一日、時ノ長野県知事大山綱昌閣下ヨリ御言厚キ感謝状賜ワル。一九八二年昭和五十七年七月思い出される中国青年小笠原吉治昭和十七年、三年半の軍隊生活を終えて、鍬とる戦士として富貴原開拓団に入植しました。十七年十八年は共同経営にて楽しい毎日でした。子供も産れ本隊も入植、団も賑やかになりました。十九年には個人経営になり、八町歩程の地主となりました。二十年には酪農を取り入れた経営との事にて種仔牛も導入され、団長の命にて、私は公主嶺の農事試験場酪農指導者としての講習を受けに、半年の予定で行く事になりました。出発したのは四月中半頃でした。公主嶺は一年半位軍隊生活をした所で懐かしい気持ちでした。入所者は五名程でした。日夜講習を受け多忙なる日々でしたが、希望に胸おどらせて一生懸命でした。六月の下旬頃であったと思います。関東総司令長官の山田乙三大将が試験場を視察に来られました。その時の説明を私が申し上げました。私も軍隊出ですので軍隊口調にて張り切って申しました。まさかその時はニヶ月後に終戦になろうとは、神ならぬ身の知るよしもありませんでした。そんな事があって半月位後の事です。仲良しになった試験場で働いていた張という二十才余の青年が、私に今夜家に遊びに来ないかと誘われましたので、気軽い気持ちで張の家に行きました。家族は両親と妹の四人暮らしでした。張は私の手を握り、「俺に徴用が来て明日は奉天へ行かねばならない、お別れだから言うが、八月になればロシアが攻めて来て日本は負ける。そうしたら小笠原は開拓団には帰れない。今なら帰れるから早く奥さんの所へ帰るように。こんな事を言ったという事が憲兵に知れたら俺は銃殺になるが親友だから言うのだ」と真剣な顔で言うのですが、私は内心驚き信じられませんでしたが、酒をご馳走になり帰りました。翌朝


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