満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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く、夜の更けるまで近くの飯店で語ることが出来た。団の様子も詳細に知ることができた。そして…。昭和二十年八月十五日終戦シベリヤ抑留ソ連軍と戦争状態となる。我々貨物廠部隊は安東まで南下後退する。八月十五日の車中で終戦を知る。我が日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏する。何ともこれを信じられない。泣き崩れる兵士、怒り狂う兵士、部隊は大混乱となる。一先ず安東の東洋紡績工場に集結、間もなくソ連兵による涙の武装解除となった。昭和二十年十一月○○日ソ連軍の捕虜となるソ連兵の厳しい監視のもとに、夜間行動にて黒河よりシベリヤ領に入る。シベリヤ鉄道を北西に向う。ハバロフスク、チタ、そしてバイカル湖を通過した。皆は死を覚悟して沈黙が続く。何と十七日間、やっと下車。地名コモナール、ここはウラル山脈の山の中、ここを越えればモスクワが近い。火の気の無い収容所へ入れられた。これからどんな生活が待っているのか、誰もが帰れぬ身と覚悟はしたもの、皆静まりかえっていた。一人静かに目を閉じれば内地の肉親が目に映る。日本は敗戦でどうなっているのか、開拓団の皆はどうなっているのか、全く想像もつかない。又、知ろうとも知る目途もない。私はこのままウラルの土となるのか、すでに精神的にまいっていた。それでも生きて帰る、生きるのだ、何が何でも生き抜くのだと自分に言い聞かせ、命のある限り頑張る覚悟でいた。明日から作業、零下四十度に近い酷寒の中で伐採作業だという。我々を作業させた後で全員銃殺だとのデマが飛ぶ。やはり日本へは帰さないのか…。満州よりシベリヤへの抑留者は五十七万余と聞く。この抑留者はソ連の強制抑留によりソ連復興五ヵ年計画に従事させ、日本国の賠償として当る。シベリヤの十二月、正に酷寒、言語に絶する。粗衣粗食と過酷な重労働が強いられた。戦友は次々に栄養失調と重なる過労に堪えきれず、夕べに語った友は、朝は語らず冷たい体となって、遂に内地へ帰ること出来ず死の道を行く、これぞ正に生地獄というであろう。やがて春が訪れ夏秋と過ぎたが帰す気配もない。遂に二回目の冬が来た。又四十度も下る酷寒と戦い、伐採の重労働に耐え、粗食に耐え、細くなった腕でお互いに戦友の肩をたたいて励ましあって春を待った。幸いな事に食糧は以前より多少良くなったが、「ノルマ」仕事の量は依然百パーセント以上を強制され、酷使の連続であった。只々堪えて生き延びるのみ。その有様は筆舌には尽くせない。私も遂に生への限界に来ていた。先ず歩くことの困難、視力は減退、爪は白色化、体重は半分となる。生死を彷徨いつつも生きようと頑張っていた。昭和二十二年五月、待ち望んでいた日本ダモイ(帰国)皆は一斉に飛び上がって喜んだ。気力を取り戻してナホトカ港に集結。ここでは徹底的な共産教育を受けなければ帰国させない。五十七万余の日本兵士に労働生産を強いて、更に主義教育を植え付けるとは、捕虜の身故にどうにもならない。愈々乗船することが出来た。本当に日本の船だ。船員も日本人、看護婦も日本の女性…戦友と抱き合って泣いた。無言で泣いた。想いは早くも肉親の安否と団の友、皆達者でいてくれと神に祈るのみ…。長かった一年九ヶ月の捕虜生活からやっと解放され、舞鶴港に上陸した。岩壁に立つ日本人、「異国の丘」の歌を歌って迎えてくれた。五月十日、肉親が待つ故里に帰ることが出来て、家中無事で命のあったことを喜び、涙の対面となった。間もなく富貴原会に出席の機会があって、懐かしい拓友と会い、敗戦後の様々な悲劇を知った。無残にも避難中に数多くの犠牲者が出てしまった事、又遂に残留となってしまった人達を知らされた時、身の震えと言葉のこわばりを覚えずにはおられなかった。軍国主義日本の誤った侵略戦争が起こした、世紀の大悲劇がここに残ってしまった。二度と再びこの様な悲しい戦争を後世に繰り返させてはならない。平和な世界を願う。平和を唱える日本ではあるが、まだ戦争の終結は決してついていないと思う。中国には戦争が生んだ残留孤児が一万人ともいわれる。この孤児は三十七年間祖国を愛し、又肉親を愛し探し求めている。「国家が中国へ送り出し、国家が投げ出し、これを中国が拾って育ててくれた犠牲の孤児」これは何んとしてでも国と政府の力で救い求めなければならないものと私は痛切に感じる。昨年二月、中国残留孤児の肉親探しのテレビを見た時、たったの十四日間、顔に涙は雨となり、身はやつれ果てて、最後の一瞬まで探し求めたあの姿は、何とも耐えられなかった。この人達の幸せが一日も早く訪れることを祈らずにはおられません。今、三十七年前の記憶をたどって思い浮かんだことを記してみましたが、この他筆舌に尽くせぬところ、この幾十倍とも知れず、只々満州の広野と酷寒のシベリヤで今尚置き去りとなり、異国の土と化した戦友拓友の霊に謹んでご冥福を祈り、更に富貴原会の永交と会員皆々様の益々ご健勝であることをお祈り申し上げます。過ぎし日の広野の郷にタークルチャー音も懐かしく今も残れり富貴原開拓団安藤國男私は当時五歳位だったと思います。色々とよく憶えておりませんが、とぎれとぎれ憶えている事はあります。とても文章にはならないと思いますが少し書いてみたいと思います。私の家のあった集落はどの位の戸数があったかは憶えておりませんが、しかし集落の周りは土塀で囲んであった様に記憶しています。近くにはアロン川という川も流れていたと思います。その川へも釣りに行った事も憶えています。そして集落の隅の方に共同炊事場があった気がします。ダァーチヤという車で父達が荷物を運んでいました。家にはオンドルがありました。とにかく家のあった辺りは広い荒野という様な気がします。少し離れた集落の学校へも少し行った思いがします。そのうちに終戦、その日からは避難又避難の苦しい今日でした。避難中は鉄カブトで飯を煮て食べたりしました。薪


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