満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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いから来てくれという。慌てて飛んで行って縄を解き空車にして馬を引いて逃げると同時に、一丈余の火が押し寄せて、命からがら風上へ避れた。間もなく火は通り過ぎて行った。先程の所へ戻ってみると、一台分の薪がオキになってトコントコンと芋でも焼けばうまく焼けそうな情景であった。この日があの泉平の火事の日だったという。学校部落は幸い前に防火地帯をこしらえてあったこと、風向きが幸いして難を逃れた。夜になって風が止んで丘の上に立って見ると、丁度提灯行列のように湿地の野草が静かに燃えていた。学校の近くの満人が豚をたくさん飼っていて、夕方になると大盒を棒で叩きながらコーコーコーとやると、モロコシ畑の中から猪のような黒い豚が一目散に飛んで帰って行った様子が今なお目に浮かぶ。小麦撒きの頃は例の蒙古風の季節で、梨鋤でウネを立て、袋に入れた種子を背中に負い、管から種子を点々と地面すれすれに落とすと、あの強い風で土が自然に覆いかぶさっていった。一枚で二十丁歩とかの畑で、三頭立てのプラオで耕して、二・三回往復すれば昼。あの頃現在のように大型の機械があったらば、どんなにはかどっただろうにと、しみじみ思われるのである。その頃戦況は次第に日本に不利となり、召集令状で若い人達はどんどん減っていった。そして私にもその日が来たのであった。束の間であったけれども人生の一コマ。これも私には大変勉強になった。独身であったこと、期間がほんの少しであったことで、団の方々とのつながりが無く、又入隊ということで本当の労苦を分かち得なかったことを申し訳なく思っているものである。満州開拓の思い出唐沢孝子昭和十九年四月末日、第十一次富貴原開拓団花岡部落入団。開拓の妻としての第一歩を踏み出し、すべての事に驚くのみ。部落の名にふさわしく、雄大な曠野に美しい花々が乱れ咲き、夕日が落ちる時は映画の一コマを見る様な恍影に胸を躍らせたのも束の間、山口さんがナチトンの帰り行方不明になり、日夜各部落の男の方々が捜索に出る。ある夜、遠くに野の火事、又泉平部落の火事と、何か一瞬不吉な戦慄が胸をかすめて通り去った。それからだった。私達の住む団、兵隊さんの姿も見えず、空飛ぶ飛行機の音もせず、これで日本は戦争をしているのかしらと思われる日々もあったのに、今日はどの部落の誰、今日はここの誰と次々に赤い紙一枚で兵隊さんとなって召集されてきた。まさか家の主人とも思っていなかったのに、二十年四月末に皆さんと同じ様に召された。それからわずか四ヶ月足らずで、あの忌まわしく恐ろしい日を迎える事になろうとは、信じられない、信じなかった。花岡部落のほとんどの男の方は召されていたから、終戦を知ったのは二日も三日も過ぎたと思う。最後の召集で望月さんたちをあの丘まで送ったのは終戦を知らずに送った。その人達が帰って来た夜だった。その夜は少ない男の人達が部落の警備にあたってくれた。次の日、本部より安藤さんが連絡に来た帰り部落から出た。途端満人に馬から引き落とされ裸にされ、部落へ戻って来た。私も咄嗟にとにかくこれを着てと自分の上の物を掛けて、部落中前の畑まで着のみ着のまま避難し、その足で本部まで行く。その日を限りに二度と花岡の家々を見る事が出来ぬとは夢にも思わなかった。本部も上を下への騒ぎだった。そう私ども日本という国に生まれ、負けるという事を知らない者達ばかりで、とまどい、うろたえ、その時の気持ちは話になりません。本部からひとまず伊南へ行き、山の中腹に一団の人の姿に匪賊と聞き違い怯え、伊南へ着きざわざわとするのみ。あの山の中腹の人達は大和部落の人達。私もそこで主人の姉達家族と共になる。本部に勤めていた姉さんの娘栄子と二人、もう私達これで死なねばならぬかもしれないで、栄子と私とで家族の写真を胸に抱いてと二人で話したのに、良かったと思った。その時姉さんは、皆どうしたの、私達の部落ではもし万一の事があれば毒薬を呑んで死ぬということで薬を皆持っている話を聞き、「姉さん私は一人ではどうして死ねば良いかわからないし、誰かに私を殺してと言ってもそんな人もないし、どうしよう」って言ったら、姉さんが子供の分が少しあるからこれをあげるといって頂いた時の気持ち、私もいつでも死ねると思ったら、幾分気持ちも楽になった。その直後、山下先生の奥さんが小さい方の娘さんを「懐剣で死なせる、皆さんの迷惑になるといけないから」と言って一騒ぎしたけど、まあそれは本当の最後の事にしてと思いとどまって頂いたが、あの時は本当にお互いが人心地がなかった。そのくらい乱れていたと思う。それから大和へ帰り、そこで暫くいた。いつも落ち着かぬ気持ちで、何をやるでもなく、その頃は少し武器もあったので強い所もあったと思う。ある事で、多分山口さんの姿を見たとか見ないとかの満人だと思う。柳の木に縛りつけ、遂には亡き者にした一コマもあった。それから後、多分蒙古の兵隊だったと思う。その人達に武器は全部取り上げられた様な気がする。人間自分を守る物を持たないという事は何と変らせることか、あーした状況の中で。それから伊南にも暫く居た。そうしてもうここに居てもという事で、九州の天草開拓団へ集結する事になり、歩いて何里かと道をお互いに助け合って、その日花岡部落を懐かしい想いで涙ながらに、もう二度と再び見ることもないだろうと見て通ったが、私達の居た時の姿は見られず、変っていた。天草へ着いた。夜だった。この時学校の廊下を人の波に押されて入って行ったら、中から山下先生が人波にもまれながら出て来て、すれ違いに「唐沢さん、この近くの開拓団にご主人がおりますよ」と言われ半信半疑だった。一夜まんじりともせず、人にも話


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