満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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せず、次の夕方まで居て姉さんに話したら、姉さんが兄に、兄が団長に、近くの開拓団へ電話をし、貴島の団に居ることがわかり、周囲の状況が悪かったが、兄の他二・三人で車を出し迎えに行ってくれた。話によれば興安嶺から歩き詰めで出て来、天草の団にたどり着いて、富貴原へ電話を入れて頂くのに、もう電話線は切られ、富貴原の人達はどこへ行ったかわからないと言われ、じゃあチチハルへ出るつもりだったとか。運命というのか、昨夜主人が宿った天草へ私達が行こうとは。大きなお腹をして主人に逢えたなんて、普通なら飛び上がる程の喜びだったと思うのに、あまり喜びも感じず、さりとて悲しくもなし。お互いの心がそれ程に荒れていたのかもしれない。満足に食べるものもなく、男の人達や出れる女の人でも民家の手伝いをして得たアワやイモをかろうじて命つなぎにしていたと思う。夜天草に着いた途端に、もう馬を盗られたり恐ろしい事のみ。夜襲に遭い、それで男の人達は校舎の近くに警備につき、後はコウリャン畑へ身を一晩中潜めていた。あちこち銃の音、コウリャン畑へまで弾が飛んで、もう三センチもの本当に耳をこすらんばかりに弾が飛ぶ、初めて知るあの不気味なビューンというのかピューというのか、真暗い畑の中でもう駄目かもう駄目かと朝を待った。朝方賊が引揚げた。後団の男の人達の烽を合図に出て行った。もう寒々として校舎の中には紙くず一つない程に全部持って行かれ、その日からいうにいわれぬ、書くに書かれない様な日々。校舎に二階を作り草を敷き、上で火を焚いて暖をとり、昼は少人数にしろ匪賊に逢い、夜は女を連れて行かれ、女として耐えられぬ事をされ、そんな日が続く中、私は女の子を生んだ。今考えるとよくもまあ気ちがいにもならず、病人にもならず、何人かの胎児を駄目にした中、私だけは主人と話し合って、とにかく最悪の場合は団の人達に迷惑がかかる様な事があってはいけないし、お互い生きる為には、笑うようになった可愛い子供を紙くず同然に捨てられるかと、さんざん悩み苦しんだ末、主人と保科さんとに力になって頂き生む事にした。お陰に備わっているというのでしょうか、夜も泣かず誰にも迷惑をかける事なく大きくなって行った。そんなある夜、また女の泣く声、廊下に兵隊の足音、それでも若い女の人達をせめて守れるだけは守ってと、髪を切り男の姿になり、別な所へ隠し、子供をお互い一人ずつ自分の子供として、なるべく女としての身を守ることに努めた。それなのに伊那市から行った吉沢さんの娘さんの一人は、口をきけない人だったのに、どうしても連れて行くというので大さわぎ、威嚇射撃をして脅し、お母さんは撃つなら私を撃って下さいと立ち上がった時は、ああどんな時どんなになっても母なればこそと思い、私も強くならねばと思ったのに、遂にあの娘さんも守れず、朝帰って来た時は泣くにも泣けぬ放心した様で見るに忍びなかった。そんな事は珍しくない様なあの頃をしても、冬畑のコウリャンが刈り取られ、見渡す限り大野原になり薩という物がない。最後の匪賊が昼間来た。彼方の丘の上に騎馬隊が何百人という程にこちらを伺いて押し寄せて来た。皆んな夢中で畑の中を逃げまどった。その時弾にあたり亡くなった人あり。生きて少しいて結局は亡くなった人もいる。その後道徳会の会長とやら言う方々が来て各民家へ入れてくれた。それからは団の人達はバラバラだった。私達は運が良く大変良い家庭へ入れたので、あまり身体の苦労はなく、唯内地へ一日も早く帰りたい事のみ考えて暮した。そして二十一年八月、日本政府の命により帰還を命ずの連絡がありナチトンへ集結した。暫くそこで各方面から出て来る人達を待ち、連絡のつく限りは連絡をした。でも残念な事に遂に連絡もとれずにいた人達もあった。最後にナチトンを出る時、旗公署の旗長さんが国境の町の歌を上手に唄って送ってくれた。それからチチハルまで出たが、途中岡さんと伊藤さんが居るという部落に泊ったので、男の人達は随分と捜したんだが遂に逢えなかった。チチハルに暫く居て、待ちに待った日本へ帰れる汽車に乗り、途中色々な事が有りましたけど、コロ島から運仙丸に乗り博多へ下り、一路伊那へ。皆松島の役場へ行き、そこから各々自分の家へ帰った。二十一年十月十六日頃と思う。あれから三十七年経った。今あの頃の事が走馬灯の如く頭を走る。開拓戦士の妻として誇りを持って渡満して、夢の様な美しい曠野での生活は、僅か一年三ヶ月で恐怖というか悪魔というか、あの様に暗転するとは。兵隊さんはシベリヤへ送られ大変な日々を送り、内地ではあの原子爆弾、恐しい事であったけど、開拓戦士としてお国の為に異郷の地で敗戦になるとは、何と日本人にとって惨めであった事か。私自身、又私の家族はこそ別に何という事は無かったにせよ、八月十五日から二十一年十月迄の日々に心に付けられた傷は、深く大きなものである。あの忌まわしい一コマ一コマは忘れられない。そしてあの国境の町の唄も。私が心に付けられた傷は、私がこの世を去るまで癒えない事だろう。その傷が無くなる時、やっと私は終戦と言えるのではないだろうか。儘々と書けばきりもない。唯大雑把にペンを走らせ、手記というにはあまりにも貧弱ではあるが、ペンの走るままに、もし少しでも皆さんの為、私共の心の糧と出来ましたらと思いまして、よろしくお願いします。昭和五十七年二月唐沢孝子いくとしつき忘るることなき同胞よ忘れ得ぬ心の傷あと深きかな


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