満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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それから十月の下旬頃、第二回目の大匪襲に遭い、数人の犠牲者が出て、金銭・身廻品一切持ち去られて悲しさ一杯ですが、泣くにも泣けない有様でした。十二月に入り、愈々寒さ厳しくなり、団の資金も無くなり、越冬の準備のために一応団も解散することになり、満人の所へクリーとして住み込むことになりました。満人の妻になる人、生きるためにはやむを得ぬ行為です。私は幸い、今は亡き植田さん、鈴木さんという良い方々の御加護の基に一緒に屯長の家にお世話になり、食事その他不自由のない生活をさせて頂き、両家の方々のご恩は決して忘れません。三月頃まで屯長の家に厄介になっていたような気が致します。その頃治安も良くなり、何時までも奥地にいて、もし内地帰還命令が出ていても気づかず、取り残されてはまずいということで、チチハルに一歩でも近づこうと意を決して、植田さん、鈴木さん一家と共に屯長の家を出て、二ヶ月くらいの間リュウジョウハンに住んでいた神谷さん(の満人の家)に厄介になり、チチハルへ出る機会を待って、五月頃の肌寒い或る夜、私達一行は神谷さんの家を無断でこっそり抜け出し、幾日か野宿をしながら、チチハルの日本人会を訪ねたのでした。運良く丁度そのところに本田さんが一軒借りて生活していたので起居させていただき、近くの公安局(日本では警察)の炊事婦として働かさせて頂き、内地送還を待っていたのです。チチハルも発疹チフスが流行しており、私の知らない所で幾人か団の方々も亡くなっていた様でした。八月のある日、愈々待望の内地帰還命令が出、コロ島より乗船、一路帰国の途について博多港まで到着。上陸を目前にしたのですが、船内に伝染病が発生し、検便の結果保菌者が出たために一週間延期とのこと。一週間後、検便の結果が陰性になるまで上陸延期で、二週間ほど船内に閉じ込められていた様な気がしました。ようやく上陸の許可が出て博多へ上陸。進駐兵が近寄って来て、頭から足の先まで白い粉を真っ白にかけられて驚きましたが、そのお陰様で末悩まされていた虱(しらみ)の巣が退治出来て良かったと感謝しました。故郷の辰野駅に着いたのが十月の中旬頃だったと思います。その時、真白い御飯とさつまいもの御味噌漬けの接待を受け、その食事の美味しかったこと、今でも忘れません。無一文、丸裸の私を暖かく迎えて下さる所ってやはり実家でした。まだまだ書きたいことは沢山ありますが、このくらいで。私が今声を大にして叫びたいことは戦争の無い平和世界、核兵器廃絶・軍縮を要望する運動に協力したいこと。まだ中国にいる残留者が一人でも多く帰ってきてほしい。亡くなった方々の御冥福を心からお祈り申し上げたいことです。満州の思い出原健昭和十七年の夏、母が亡くなって私は故郷に何の未練もなくなった。当時農家の二・三男の生きる道は軍需工場か海外に出るより他に道はなかった。幸い松本連隊当時の友人が満州にいたので頼って熱河へ渡った。その頃戦争は益々激しさを加え、南方から次第に追い上げられて、ひしひしと身に迫るものを感じるようになりました。五族共和を唱える日本人は、一応指導的な立場にあることを笠に利己に専念する人達が多く、労務に従事する職場においては常に意見の相違が多く、私の性格のためか人間関係が本当に疎ましく、共和会・鉱山・紡績会社の労務を転々と歩いて、混沌とした気持ちでいた折、富貴原の学校にいた桐原からの誘いがあり、人を相手とせず、天を相手として、晴耕雨読の生活が出来たらと入植を決意したわけです。昭和十九年十二月、トランク一つに身の周りのものを詰め、国民服に満人のこしらえてくれたラシャの靴をはいて、南満を発ってハルピンを経て札蘭屯に着き、弁事処に一泊させて貰い、翌日那吉屯行きのトラックに便乗、ホワランズで下ろされ、一人で草原の中を学校部落へ向った。やがて右方に部落が見えてきた。これが花丘部落だったと思います。子供が一人立っていて(誰だったかわかりません)、学校部落を聞くと「アッチ」といって先方を指さす。突然の訪問に姉夫婦は心から喜んで迎えてくれた。渡満以来初めての肉親との対面はこの上ない喜びであった。十二月というに、周りの畑にはモロコシがまだ収穫されずに放置されていた。早速その集荷に幾日かを費やした。学校の裏の小高い丘の上の畑の土を堅めて、その上にモロコシを幹のまま置き、木頭コンブーを馬に牽かせてゴロゴロとまわると脱穀される。それを風向きを見て空中に投げ上げて選別する。こんなことも初めての経験であった。学校の厩舎には数頭の馬がいて、青訓の船木さん、清水さん、山川さん、田中さん等がハダカ馬に乗って、あの広い斜面を自由に駆けめぐる様を見て、私も早く乗馬出来るようになりたいものだと思った。でも馬はなかなか利口で、下手な人が乗ると言うことを聞いてくれない。ある日本部部落へ行くことになって、一番おとなしい赤い馬に乗って出掛けたが、部落のはずれまで行くと動かなくなり、ムチで尻を叩くと私を落とそうと前足で立って尻を振り立てる。又足を踏ん張って動こうともしない。もとの厩舎の方へ向けるとトットと帰っていく。いいあんばいにからかわれてしまった。ある日薪取りに部落の裏の斜面へ出掛けた。大きな木はほとんど無く、二年生くらいのカシバミの木があった。この日は相当風が強く、遥か彼方で野火があって煙が上がっていた。どうも夕方頃にはあの火がこの辺まで来るんではないか等と話しながら車一台分刈ったので、苦力(シンホワサン)と一緒に荷造りして、家に持って行くよう命じ、しばらく刈っていると苦力が息せき切って飛んで来て、野火がそこまで来て馬が動かな


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