満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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の寒冷の土地の人々の、今でも富士山の美しさと同じ様な人情につくづく驚いております。昭和十七年三月生まれの長男をつれ、親子三人逃げ出す様にハルピンへ出て、鉄道を一路北へ北へとチチハルの近く、札蘭屯(ジャラントン)に下車しました。一夜駅の宿に泊り、トラックにて北満の果て、富貴原郷へ向いました。五月とはいえ、見渡す限り行けども行けども赤茶けた荒れ野原でした。富貴原郷はまだまだ人影もなく、谷間に点在する満人部落の中に本部を中心とする、これから発展する下準備の最中でした。学校も清水の湧き出る谷を見下ろす岡の上にある満人部落の中の二軒が学校でした。遠くから来る生徒は数人泊めてやりました。田中はつ子さんという小野村出身の十七・八歳の美しい娘さんがお手伝いをしてくれました。晴れた日ばかりで、家の中はオンドルでポカポカと床下から暖かく、一年中カラリと晴れ渡った日ばかりで、全く暑さ寒さも知らぬ間に過ぎて居りました。五匹生れた犬の子も、毎日長男が引き連れて谷間を駆け回り、幾足もの靴も次々となくして来て、子犬も次々と貰われていき、親犬をつれて遠い山まで裸足で歩く様になりました。私が風邪を引き寝ている時、土間のお風呂を炊き、土間へコーリャンの枯れたのをいっぱい運び込んで、生徒が庭で遊んでおりました。風呂の火がコーリャンに燃え移り、堺の戸も焼けて、煙の中を私は窓から飛び出し助かりました。学校の苦力(クーリー)「シンホワサン」が駆けつけ、タンス・衣類・布団類を皆出してくれました。家を失くした私達は青年学校の生徒の家に泊めて貰いました。うら若い数人の生徒は、皆真剣に総てに真面目に取り組む姿は立派でした。舟木さん、清水さん、田中さん等々、敗戦と同時にソ連ロシアへ皆連れ去られました。あの真剣な若者等の姿は尊く、いまだに脳裏を去りません。若い生命はおしみても余りあります。田中はつ子さんも助けられた満人青年と結婚してしまい、帰国の折一緒に日本へ行こうと誘いましたら、「私はもう満人の妻、二度と日本へは帰りません」ときっぱり言われました。私も敗戦にならず満州を追われなければ、あのカラリとした風土の中、人情も厚く話しよかった北満に住んでいたと思います。田中はつ子さん、一人満州に残って頑張ってね…。私も骨を埋めるつもりで渡満した筈なのに…御免なさい。どうぞしっかりしっかり身体に気をつけて、長生きして下さいね。終わりに田中はつ子さんの御幸福であることを神かけて祈って止みません。命ある限りを。桐原しなの満州時代を偲んで倉田作子(旧姓小川)終戦後三十七年も経過した今日、さて何から書いて良いやら、思い出すまま結婚当初から書いてみたいと思います。第十一次先遣隊として、伊南郷の私の姉の主人が農事指導員として入植していた義兄の御世話で、すでに決まっていた婚約を解消して、昭和十八年二月八日小川巌と結婚致し、開拓の花嫁として国策の線に沿い、郷土の方々に祝福されながら意気揚々として四月八日出発、日本を離れた訳でした。大東亜戦争もたけなわで希望に燃えて入植したのです。その頃はまだ日用品も豊富でした。電気製品は無く、ランプで不自由な日々の生活の中でも充実した平和な毎日でした。十九年の七月十六日、長男鯇一郎が誕生。一家の喜びも束の間、主人の母が突然脳溢血で亡くなり、その頃から戦局は激しさを増し、団員の中からも召集され始め、不安は募るばかりで、私の主人も二十年の五月突然招集され、団も老人・女・子供達で心細い毎日です。二十年八月十五日、原住民の動きが異常になり、変だなあと感じていた矢先、十五日終戦と聞かされ、今までの生活は一変され、不安な毎日です。このまま本部富貴原に居たのでは生命安全の保証はなく、身の危険を感じ、全員避難命令で第一回目は大和部落に集結。集団生活を余儀なくされ、その不自由な生活も数日、八月下旬、原住民の大襲撃に遭った。団員の中からも死亡者が出、家屋は焼かれ、恐ろしくて身の縮む思いがしました。大和部落も安住の地でなくなり、団の方針に従い、天草開拓団に避難することになりました。最小限の身廻品に、老人・女・子供手を引きながら、やっとの思いで天草開拓団に到着。体育館の校舎に収容され、板の間ですから布団代用にヤン草を刈って来て、その中にうずくまって寝る有様。一寸と動けばカサコソ、豚と同じ様な生活です。食事といえば馬鈴薯の中にお米が混じっている丁度で、一日におにぎり二つ程度でお腹が空き、原住民の畑へ行き、落ちこぼれている大豆・小豆を一粒一粒ずつ拾い集めて来て、ブリキの板か空缶で煎り、空腹の足しにして僅かばかり飢えをしのんでいたのです。ですからお乳は出ないし、我が子も弱々しい声で旦々と口ずさみながら栄養失調で死亡。その時の状態が三十数年過ぎた今日、尚脳裏に焼き付いていて忘れ去る事は出来ません。日増に寒さ加わると共に団の財政も底をつき、栄養失調で老人・子供は次々と犠牲になり、何時も思う事は早く内地に帰りたい事と、何でも良いから腹一杯食べたい事、そんな明暮です。天草での乞食に等しい様な集団生活も板に付いた九月頃かと思います。ある暖かい日、演芸大会を行う事に一決して、皆得意の芸を御披露し楽しい一日でした。私も娘の頃踊った雨降りお月さんと歌をやらせて頂き、大変な好評で得意でした。興奮がさめないその夜、ソ連兵の襲撃に遭い、銃剣を突きつけ、生きた心地はなく、恐ろしい悪夢のような一夜でした。その夜から女性は丸坊主頭になり、顔に炭をつけて警戒したのです。


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