満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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開拓の思い出箕輪町沢浦野しげみ終戦までは平和な希望のある毎日の生活でした。そして宮下さんには大変御世話になりました。私達は花岡部落でした。ある時、父さんの留守に炬燵から火が出て、もう少しで火事になろうとした時に、宮下さんがとび付けて来て下さって、炬燵を外に放り出してくれたので火事にならずにすみました。本当にうれしく、今でも感謝しています。又、天草の学校に逃げて行った時には北川さんに大変な御世話になりました。長男晃は何時も側においてお世話をして頂き、本当にうれしく有難く思っています。終戦前に父さんは召集を受けたけれど、体が悪くて解除になり家に帰って来ました。続いて敗戦の知らせを聞きびっくりしました。皆で相談のうえ、ひとまず大和部落にお世話になる事になりました。そこで自決しようとの話になりましたが、又いつか日本に帰れる日もあるかもしれないからひとまず生き延びようとの相談がまとまり、大和部落に一泊させて頂いて、今度は天草の学校を目指して出かけました。大和部落から車に荷物と子供を乗せて、夢中で天草へとたどり着きました。家には男の子が三人(小学一年、四才、一才)いたので、父さんと私と一人ずつ背負って長男晃の手を引き、天草の学校へと逃げました。逃げながら吾が家の方を見ると、火をつけられて一面に燃え上がっておりました。学校に着いた晩から匪賊に襲われ、着物を剥ぎ取られ、時計・眼鏡等も皆盗られてしまった。夜昼やって来て銃を持って脅かすので、大人も子供も生きた心持がしなかった。こんな日が続き、食べ物も無くなり、寒さも日益しにひどくなってきたので、十二月中旬頃に、各々が住む処を探さなければならなくなった。私たちは子供三人を連れていたので置いてくれる処がなくって、だんだんと奥地へ入って行かなければなりませんでした。途中長男は、寒さと疲れのために道に倒れてしまい仮死状態になってしまった。驚いて抱き起こしても生き返らないので、諦めて道の途中に置いたまま来てしまった。ようやく近くの家に置いて頂くことになり、家に落ち着くと満人が来て、日本人の子供が道に泣いていると聞かされ、急いで行ってみると息を吹き返していたのでとても嬉しかった。急いで連れて帰り、御世話になることになった満人の家に帰りホッとしました。それから二日くらいたって、小さい子供(三男)がぐったりして、呆気なく死んでしまいました。食糧が無くてモロコシを砕いて煮て食べるので、小さい子供には生きられなかったのです。遺体は父が湿地に葬ってきました。悲しい事でした。十二月中旬頃だったと思います。二男も食糧の悪いためと寒さ疲れ等重なって、二月二十八日に遂に亡くなってしまいました。お父さんも弱い体をおして油をしぼる仕事をしていましたが、疲れのためか貧血発作で倒れてしまい、どうすればいいかと本当に途方にくれましたが、気が張っているため、又元気をとりもどしてくれましたのでホッとしました。三月に入ってようやく春も近づいた頃に、ずっと悪かった胃腸がついに快くなれず、晃も三月二十八日に弟達の後を追って逝ってしまいました。この子は五才まで内地の本家で暮らしていたので、家中で心配して待っていてくれるので、どうか良くなって一緒に連れて帰りたいと念ったのに、とても残念で悲しく思いました。戦争のためにと諦めきれない思いでしたが、この子が成仏出来ないと思ってようやく諦めました。お世話になっていた処は黒龍江省阿栄旗亜鎮屯という処でした。三人の子供たちの眠る満州を思い、この子達の犠牲を無駄にしてはならないと思います。平和ということがどんなに有難いかを忘れてはならないと思います。日本に引揚の道中は皆様にお願いします。北満を思う桐原しなの昭和十四年下諏訪小学校教諭桐原長人(二十五歳)は富士見在満国民学校へ単身赴任しました。翌年春帰国、茨城県満蒙開拓義勇軍訓練所女子部に私の入所をすすめ、婚約直ぐ又渡満していきました。当時全国的に満蒙開拓精神に燃え上がっており、内原には国中から農民がいっぱいに集って来ておりました。所長加藤完治先生の自宅の廊下続きに女子部があり、寮には女生徒三十数人が起居を共にして、奥様の茶の湯・生け花の外、三人の先生が満州料理及び渡満についての勉強、精神鍛錬の外、有名人の講演が毎日義勇軍訓練所にあり、列をつくっては出掛けて講演を聞きました。翌年三月退所、四月結婚、直ぐ渡満しました。ハルピンより松花江を船で半日さかのぼった。木蘭(ムーラン)という港につき「トラック」にて奥地の富士見開拓団につきました。昭和十五年、富士見開拓団には赤レンガの病院及び二〇〇mの素晴しい赤レンガの富士見国民学校が完成しておりました。教員住宅も完成しており(二棟)、百人を超す生徒が寄宿しており、和気あいあいと勉強に起居を共に、食事から一切規則正しく、その赤煉瓦の校舎の中に一部布団が入って寄宿舎になっており、百人近い生徒が起居を共にしながら和気あいあいと勉強をしておりました。若い男の先生ばかりで間に合わず、オルガンで唱歌を私も教え、遊技体操に又一・二年の授業も手伝い、大きな炊事場へ出ては内原で習った満州料理をこしらえては、みんなと並んで毎日食事をしました。十七年、奥地佐久郷から二十数人をつれた先生が来られ、富士見小学校で一緒に勉強しました。十八年春、郷里上伊那郡の富貴原開拓団が入植した知らせを聞いた。夫桐原はもう飛び上がる程喜んで、矢も楯もたまらず、生れ故郷へ帰る思いで、こっそり富士見開拓団を捨てたのです。でも教え子は手紙をくれ、毎年同窓会に呼んでくれています。それぞれ全国各地で元気よく働いている様子を知らせ、態々自動車で訪ねて来てくれたり、あ


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