満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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方も同じ部落に居たとのことでした。満州のお正月がやってきました。日本も同様暮れは忙しい。二、三日前から準備で豚を殺し肉を作り、お豆腐も手作り、餃子も三ヶ日分、私達も餃子作りを手伝い、けれどもなかなか上手に出来なかった。一枚一枚器用に伸ばしてくれたのに、細くした肉や野菜のどっさり混ざった中身を不器用に包みました。大勢の分を作るのだから沢山出来たように思う。忙しいのにタイタイが女の人達の顔まで剃ってくれたのだが、木綿糸を二本口にくわえて、グイングインとよじり取るというのか、その痛いことといったら火が出そうでした。器用だなあとみんなで呆れていました。赤い紙にお目出たい言葉を書いて、門口に馬屋、豚小屋、鶏小屋等、いたるところにいつの間かしら知らないうちに貼りつけられていた。家の中のお飾りも鶏のお頭つきのままだとか、色々と神様にお供えして大変なことでした。内地の二年参りと同じで小さな祠があって、そこへお詣りするらしく、真夜中に雪道をキュウキュウさせながらガヤガヤと話し声が聞こえてきました。元旦から三ヶ日は暮れに作った餃子など大変なご馳走をしてくれました。本当に美味しかった。これだけの大世帯をただ食べさせてくれたんだからありがたかったわけです。お正月の寒いうちは集会所に大勢の満人が集まってきて、バクチの一種でしょうが、漢字を大きな紙に何文字か書いてあり、その中の一字が隠されていて、お金を賭けてあるから、その文字に当れば儲かるのだと思います。一度は私に今日はなんという字だと言われて、やたらと言ってみたらそれが当っていて、それからは今日は何という字かと聞きにくるようになりましたが、なかなか当らなかったように思う。松沢のおばちゃんは子供を亡くしてから、屯長の弟の家がすぐ隣にあって、そこへ昼間だけ手伝いに頼まれていっていたように記憶している。いくらか暖かくなって、お世話になった駱駝山屯部落とも別れをつげて、みんなで那吉屯に出た。主人は足を痛めたのでリュウジャンハンとかいう部落でお世話になり、私は元の旗立病院が東蒙古の軍事病院に変わり、そこで看護婦として働かせていただくようになりました。院長は蒙古人でしたが、内容は全部、医者も薬剤師、看護婦も日本人だったので、慣れた仕事だし本当に良かったように思う。どういうことで働けるようになったのか全く覚えていない。とにかく白い赤十字のマーク入りのエプロンだけは貸してもらいましたが、風呂へも入ったこともなく、病院の石鹸で恥かしながらに手をゴシゴシと洗ったような気がする。患者は兵隊や地元の満人で、結構忙しかったように思います。二ヶ月は勤めたんじゃあないかと考えていますが、主人達が先に野宿をしながらチチハルに出た。私は病院の方を辞める都合上後になり、お産婆をしていた保科さん夫婦に、チチハルへ小麦粉やモロコシなどの食糧運搬用の車の荷物の上に乗せてもらい、途中馬宿に泊まって行った様な気がする。三峯郷開拓団収容所と道を隔てて反対の丸義という元旅館跡に寝起きして、男の人達はみんな土方仕事に出て、女の人達もそれぞれ満人の家に手伝いに入り働いていた。私は先に出ていた片桐さんのおばさんの世話でタバコ巻きに行き、食事付きで、子供には三食付きでした。保科さんも発疹チフスで亡くなり、毎日のように病人や亡くなる人が出て、しまいには日本人墓地へも運び手も無くなったくらい。保科さんの奥さんも今何処においでなのかなと、ふと思い出しました。私の子供も大腸カタルをおこし、血便が毎日何回となく出て、夜など電気はなく真暗がりを便所に連れて行くのは大変なことでした。便所も八畳間位全部に穴を掘って、それに長い厚い板を二十センチ間隔に渡してあり、男女広い所に一緒で、恥ずかしいもなにもありませんでした。それから毎日タバコ巻きには行って働いていましたが、体中にひどい汗が出て、二、三間も歩けば息切れがして、日本人会の医者に診てもらったところ湿性肋膜炎と言われ、一層体中の力が抜けてしまった。どのくらい経ったのか、今度は関東軍の倉庫跡に移り、コンクリートの上にムシロを敷き、麻袋をかけて寝ていた。芋をすって湿布をした方がいいと言われたけれども寒くてそれも出来ず、もうタバコ巻きに行くどころではなかった。山口清勝さんのおばさんも「うまいものを食べたいものだ」と伊那節をうたって、すぐに亡くなってしまいました。本当に哀れに思いました。横に寝ていた鈴木さんも発疹チフスで重体でした。引揚げ命令も出たけれども、内地に帰れる、嬉しいという気分にはなれなかった。帰り際に主人も発疹チフスにかかり、薄ばかのようになっていたけれども、どうにか汽車に乗って、幾日かかったか、とにかくコロ島までたどり着きましたが、乗船前の身体検査があるため、熱が高く、結局伝染病棟に隔離されてしまいました。そこで団の人達とも別れ、どの位入院していたかも忘れました。乗船出来て博多港に着きましたが、いろいろ検査もあり、十日間くらいも船の中に置かれ、その長かったことといったら今も忘れない。夢にまで見た内地でしたが、体の具合も悪かったためか感激もなく、名古屋駅ではじめて鏡に映ったとき、自分達の余りにも変わり果てたのに驚きました。帰っても終戦後の衣料、食糧難等々ひどく、三年位はあの時にいっそ死んでしまった方がよかったと幾度か思ったものでした。現在は三人の娘も嫁いで、あの当時を思えば殿様だねと主人も二人でよく言っていましたが、昨年十月には病には勝てず亡くなってしまいました。三十七年経った今、当時を偲んで書いてはみましたが、どこまで真実だったか忘れたところが多く、お許し下さい。中国から帰った人達、残留者など思うと複雑な気持ちですが、どうかお幸せになってくれることを心から祈らずにはいられない。これからも富貴原会を続けて頂き、語り合いたいと思いますので、役員の皆様、お世話様でございますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。


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