満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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も本当にご苦労様だった。その頃私達は大和部落で野溝さんと同じ棟に入っていた。ある日野溝さんの山羊が生まれたての子山羊を残して死んでしまった。腹がへって泣く。かわいそうで思いついたのが、自分たちの乳をやることにした。丁度二人とも母乳があり余っていた。草を食べる動物だけに舌がざらざらしていただけで、喜んで上手に飲んでくれた。あの感触を思い出す。後はどうなったのか覚えていない。夜など壁ごしによく話したものでした。昭和二十年八月十日頃だったと思う。主人にいよいよ召集令状が来た。八月十五日チチハル部隊入隊。団の若い人達もこれでほとんどみんな行くことになった。後はたのむと…。これもお国のためで仕方のないことでしたが、これからの団はどうなるのかと心配で一杯でした。終戦思い出すのも嫌で、書き残す気にはなれなかったが、三十七年前の記憶の一部分を何とか書いてみます。昭和二十年八月十五日入隊だったはずの主人達が突然十八日頃団に帰ってきた。初めて終戦を知らされた。そんなばかな?…あろうはずがないと思った。信じられなかった。入隊する兵舎は火の海、チチハルの街は大混乱だったそうで、ハイラル方面からもどんどん兵隊が南下してきたとか?…。満人は最早手の裏を返したような反感を持ち、やっと帰ってきたらしい。次の十九日には今迄なついてきていた満人(金次郎)にだまされ、ソ連の兵五十騎が押しかけてくるからすぐ逃げるように言われ、子供をおんぶして持物も持たずに大和部落裏山に登った。その時はすでに死ぬ覚悟で、小笠原さんが青酸カリの毒薬を皆んなに分けてくれた。いざという時それを飲む。死ぬことしか頭になかったので、お金を持ち出すことなど全く頭になく、それに松沢さんのも預かっていながら本当に申し訳なく思っています。山に逃げ出して帰ってきてみると、お金はもちろん、めぼしい物はほとんどなくなっていた。一度火事に遭っていたのでもちろん大した物もなかったと思う。主人は本部にいたのでいつも一緒ではなかった。本部部落の方で、鉄砲で殺したとか殺されたとか言って困ったことになって来た。いよいよ住み慣れた家を後にして、布団や身のまわりの物を持って、いったん伊南開拓団に終結することになったように思う。着いたその晩に馬や車を盗まれた。それから間もなく鉄砲など全部没収されたように思います。満人がいろいろ売りにきてもお金もないので買うことも出来ず、さみしい思いでした。八月末には天草開拓団に行くために伊南を出発。八月末といえば夜など秋も深まったと思う感じで、夜空はきれいに澄んで、星がきらきらとまばたいて美しかったけれども、かなり寒くなっていた。どの辺まで行ったかわからないが、威嚇の銃声が聞こえたり、辻にはヤリを持った満人が待ち構えていたり、匪賊も出るというので生きた心地はなかったが、人命には何事もなく、天草に着くことが出来ました。それから幾日たったのか夜の襲撃に遭い、亡くなった人も出た。本当に気の毒なことをした。私達も夢中で暗闇をもろこし畑に逃げ込んだ。とにかく布団から着る物などほとんど無くなったため、男の人達が長い草を刈ってきてくれ、ぎっしりと敷き詰めて、豚同様ガサガサと草の中に寝ていましたが、なかなか暖かかったように思う。それでもまだ何か隠し持っているのではないかと、毎日馬に乗った兵隊風の者がやって来ては、身体検査をしては裸にし、目ぼしいものはないか、お金をまだ持っているのではないかと小さな子供までを…その点何にも無かったから気楽だった。子供達もだんだんハシカなど流行って亡くなっていきました。食糧は毎日団の方で粟の中に芋など混ぜた塩むすびを一人小二個ずつで、一日に二食だったように覚えている。粟のおじいとか言って、満人が粟など運んで来てくれていたようです。日にちは何にも覚えていないが、こんどは昼間の匪賊の襲撃にあった時は本当に恐ろしかった。廻りには長い鎌を持った満人がいっぱい構えている。銃声は聞こえる。私の横をピストルの弾が流れているのが見えた。背中にあたったように思い、ジーンと熱くなってきた。手さげ袋に万年筆などちょっとした物を持っていたけれども、恐ろしくなって投げ捨ててしまった。生きた心地なく皆んなについて夢中で逃げた。不思議と弾も当たっていなかった。真昼だったために幾人かの犠牲者が出た。本当に悔しく、気の毒で呆然としてしまった。みんな盗られて何も残らなかった。子供があるのにオムツもあてていただけ、途方にくれた。でもオムツは向山さんにめぐんでもらい、何より嬉しかった。そのおかげで何とか過ごせた。自分のおろかさが情けなく、子供との背中の間に入れておけばよかったのにと悔やまれた。これは内地に帰ってからも、こうして隠せばよかったとか夢によく見たものでした。今考えると満人の生活も本当にまずしかったから無理もなかったと思う。団でも食糧の補給も困難になり、それに寒さに向うため、一応団を解散して、各満人部落にお世話になることになったらしい。とにかく私達は道徳会という宗教からなる駱駝(ロス)山屯という部落の屯長の家にお世話になりました。主人に鈴木さん一家、小川さん達は屯長の家で寝起きし、私達は近くの集会所に、桐原先生の兄さんと西川さん、松沢のおばちゃん、芙美子ちゃん一才、私と貞子二才の六人で宿っていた。食事は皆んなで屯長宅で食べさせてもらっていた。男の人達は朝早くから山に入って薪取りに行っていたように思います。私達女は水くみ等手伝っていたくらい。とにかく一銭ももっていないのによく大勢に食べさせてくれたものだと感謝しています。桐原さんや西川さんの仕事に行く姿といったら豚の皮で作ったボロ靴にボロ着、タクンタクンさせて出て行ったことでした。そのうちに貞子も芙美子ちゃんもハシカにかかり重体だった。乳も出なくなったり、吸う気力もなくなって、芙美子ちゃんはついに亡くなってしまいました。なんとも言えない切ない思いでした。貞子も十日程はぜんぜん目も開かず、唇はカサカサに渇き紫色になっていたのに奇跡的に助かった。後で聞いたのですが、桐原先生


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