満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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(序)挨拶箕輪町松島長野県議会議員清水重幸今振り返って見れば既に三十有余年前。在満当時の想い出は誠に懐しい。国策と共に己人的に大志をいだいての満州生活。私は昭和十六年に渡満し、満鉄安東検車区車電係として務め、その間奉天鉄道教習所にて勉強し、又教育招集で北満の孫呉電信第八連隊へ四ヶ月入隊し、又安東に帰って列車検査や列車乗務等をした。二十年八月十五日終戦となったが、三ヶ月間は進駐して来たソ連軍の命による鉄道勤務をした。その頃北満や東満から逃げて来る難民の日本人を多く見て奥地の人々の御苦労とみじめさをつくづく感じました。終戦によって日本人は大変苦労して帰国した。それぞれ人によって状況は違っても、共に財も無く職も無い事は全部の人に共通していた。引揚者が団結して行政に当ったが、国も財政力に乏しく、引揚者に手を差しのべる事も出来なかった。それでも僅かの国債が支給された。私は十年間、毎年三千円ずついただいた事は懐かしい。富貴原開拓団の皆さんは良く団結されて富貴原会を結成し、毎年総会を開き、一時帰国や日本に永住する話等、皆んなで懐かしく過ぎた昔を語り合っている姿を見て感心させられる。生死を共にした仲間であり、肉親を異国に置いて帰国した人々ですので、その話に実感があります。今回想い出の文集をつくるにあたって、私に挨拶を書けとの御申しつけ、誠に嬉しく思います。外地での立場は違いましたが、総会等には必ず呼んでいただいていますので、私も開拓団員として富貴原会の会員のような気がします。今後とも益々富貴原会が発展する事と、会員の皆さんのお幸せを願ってご挨拶といたします。私も県議会議員という立場を与えられておりますので、何なりと心安く御申しつけ下さいますよう希望申し上げます。満州の想い出植田正子昭和十六年、先遣隊として富貴原郷開拓団に入植していた主人と結婚。十八年一月渡満。北満札蘭屯駅より奥へ十八里(72KM)、興安おろしの吹き荒れる北満の真冬。地形は伊那谷に似たような、山あり丘あり谷間ありでしたが、日本のような松・ヒノキ等青木など一本も無く、本当に索漠たるものでした。最初は共同炊事で、お米にポーミー、馬鈴薯等多く混ぜた御飯、皆んながまずくて食べられないでしょうと気をつかってくれましたが、それ程でもなかったように思う。近くの満人もよく遊びに来たのですが、言葉がわからないので失礼なことも言って怒らせたこともあり、後であやまったのを覚えている。珍しいことの一つに井戸の水くみに汲桶は柳の枝で編んだものを使っていたこと、井戸のまわりも氷が一面張りつめて汲む穴だけあいていました。いよいよ四月になって春の訪れ、野火でもえて真黒になっていた丘が日に日に緑色になってきて、迎春花がいっぱい咲き出し、次につつじ、やぶ位のあんずの木にピンク色の花が一面に咲き、それはなんとも言えない美しさだった。冬眠から目覚めて、心もうきうきしてきた様に思います。畑も耕されて種蒔きの準備もできて、黒々とした土に生れかわった肥沃の天地。春が来たと思うと一足とびに夏が来たという感じで、杏の花から野生に百合、芍薬、キキョウ、オミナエシ等々百花爛漫咲き乱れ、その美しさが今も頭の中に焼き付いています。特に花丘部落の丘は名の通り、花一杯で素晴しかった。七月の頃のように記憶しているが、団から少し離れた阿栄川に魚釣りにいったことがある。ウースーメンと言って蒙古人部落の近くであったが、その辺に白系露人の集落もあると聞いていました。内地の伊那峡によく似た地形で岩場があり、沢山の岩芝が生えていて素晴しい風景のところでした。空は青く澄みわたり、釣り糸を下げると餌をつけなくても、名前は忘れたけれども腹下に赤いところのあるフナに似た魚がいくらでもくっついてきて、本当に楽しかった。味は大陸的で大味でした。釣りに皆んなで夢中になっていて、乗ってきた牛に逃げられて、捜すのに苦労したことでした。前方の丘に朝日がきらきらと上った時の気持ちのよかったこと。又、赤い夕日の沈む黄昏時も素敵でした。モロコシ、南瓜、キュウリ、ナス、スイカ、マクワウリ、大根、ニンジン、野菜は何でも、スイカなど本当に甘くて美味しかった。そしてある時は、診療所の山下先生が札蘭屯に出張で留守の折、確か伊那市から来ていた倉田さんという十五・六才の息子さんだったと思う。足のひざ関節の外傷で大きく口があき血が流れていた。そのまま置いたら大変だと考え、先生の診察室を借りて縫合術をしてあげたこともあった。満州ならではのこと、内地では考えられなかった。昭和十九年二月には子供も産まれて、主人と二人で本当に喜んだものでした。それからだんだん戦況も悪く、開拓団にまで召集令状が来はじめた。考えてもみなかった出来事でした。男の人達もだんだん減って、心細くなってきた。後に残った人達


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