満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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裏・廊下板壁・煙突まで捜し、便所・井戸まで捜し、衣類は幼児のオムツまで、什器は箸から茶碗まで屋根外へ集積し、夜間姿を変えては襲来し、一物も残さず全部運び去り、其の外僅かの食料まで略奪し、拒めば容赦なく銃殺。十月三十日迄で連続各団共に塵一本残さず略奪され、死者五名、負傷三名を出す。悪逆の限りをして引揚たる後、団長らを一時釈放して十一月三日出徴帰団を許された。帰団してみれば着には衣なく、寝具なく、食なく、団員家族三百五十名、北満の曠野に凍死、餓死、生死の岐路に立った。北満の十一月三日は当地の最寒により違成り寒さ強く、その後も十二月に入る迄毎日四、五騎より十騎にて何回となく来りては着物を剥ぎ、金銭の強要する日が続いた。十二月上旬、正規八路軍が到着と同時に劉某以下何れかに逃走し始め、治安は少し良くなりたれども、此の地にては越冬の見透しなく、生の途を選ぶか死の途を辿るか、生を永らえるには漢手にするかより外なく、団員総意により十二月十五日一時分散と決定す。この頃より乳幼児、老人、栄養失調にて死亡する者を出すようになり、この時万国道徳会阿旗支部へ会長王某と称する仏教団体が主体となり、迎在原住民へ呼びかけ日本人の救護運動の声が起こると、正規八路軍の駐屯により日本人を保護せよの声が各所に高まり、阿旗日本人会を中心にして二十数里に分散し、連絡を断たず事に努め、この斬的安全の越冬も支那正月を迎え、八月引揚命令を聞くまで農家の人夫となり働き続けたのである。以上にて大体の避難の状況なり。八月二十日現地を移動の時按立した一万四千円を旗長より支給の九千三百円、計二万三千三百円の金にて、十二月十六日迄で主食としては粟、馬鈴薯を穫り、僅かの野菜にて、粟は調整不十分にて半搗製を一日一人一合五勺、馬鈴薯一日一人百三十匆を三回に食す。十二月二十四日匪襲以来寝具なく枯草の中に寝たのである。この程度の生活で持参金は全部に分散、後は原住民と同じものを食す事となり、主食粟、モロコシ、メリケン粉、油、肉類にて、米は終り戦時来口にせずしもの殆どなく、終戦直後着たまま夜もゴロ寝で着挽ものなく(シラミ)の襲撃には日夜困った。7.現地残留者名簿氏名年齢性別残留地名摘要西沢美恵子二四女養父の死亡の地にて本人希望、養父西沢茂司黒龍江省阿栄部春氏梢氏より伊藤竹子三〇〃劉氏方夫の死亡地にて本人希望せるままにして岡石子二四〃札蘭屯山口国子二九〃旧三站本人希望夫山口三郎連田中初子女亜粟堯鑑本人希望池上光子〃〃匪賊集団地ニテ連絡不能〃隆也男〃〃栄一〃〃長江克巳〃苗地房父応召母死亡伯母の高原氏より長江千代子女大犬房吉沢よし子〃旧三站連絡不能中村弘子〃亜東鑑母死亡父応召伯父久保政男氏より〃武子〃依記養育せるものにて其後行動不明〃平吉男匪賊集団地にて公安局より連絡不能死亡者七十余名報告者元富貴原開拓団代理団長白鳥儀八郎向山一雄(写)左向山保・行子夫妻右向山一雄・松子・ひろ子氏〔向山ひろ子氏提供〕


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