満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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満人よりの情報、我団より約二十五粁【キロメートル】の大坂・玖磨川の両開拓団は昨日(十九日)夕刻より匪賊の襲撃により団員多数死傷せりとの報を受くる。時を同じくし付近の住民不穏となり、即刻あらかじめでの計画により原住民部落に最も近き第一部落の婦女子を本部部落へ集結。開拓と同時に原住民を主体とせる約三百の匪賊に包囲されたる故、家具衣類を放置し、体のみを辛くして避し得たり。然し家財全部は一刻にて匪賊の略奪する所となり、同時に第一部落全部放火し、続いて本部部落へも襲来の模様なる故、旗公署へ急報し救援をたのむと同時に伊南開拓団へも応援依頼す。危険刻々迫るこの時午後二時頃、団員一同最後の処置を決意し、団長の命令を待ち、日本人らしく逃そうの最後の準備を整へたり。本部重要書類焼却。家財物資はそのままとし、第三部落へ避難すると同時に本部及部落の略奪を始めたり、四時頃救援来着し、団員と共に匪賊一時撃退したるも多勢に無勢にて一進一退を繰り返し退散す。刻戦状態にて夜に入る。この時の救援隊の指揮権なく、又蒙人中にも日本人の救援には消極的のものも居る様子にて油断ならず、依って物資は第三として人命の警戒に重点を置き、第二部落避難引揚げ徹夜警戒。二十一日早朝本部倉庫の状態を調査すべく救援隊に援護を依頼し、昨日中に本部は何一つ残すものなく二軒の倉庫に充満せし物資も残るものなく、運び終るのみならず放火し出されり。昨夕匪賊を十一名銃殺せり。この時旗長より挨拶、各方面より要求ありて一団一団の救護は不可能故、伊南開拓団と合流が安全なれば斯くする様との注意により二十四日合流と決定した。尚旗長より各方面屯長に催告し、日本人襲撃最禁。引揚状況終戦以来チチハル以下の交通は全く絶え、チチハルより通信を唯一の希望に残し内地よりの連絡を待つのみ。五月中旬チチハル八路軍司令部ジャラントン蒙古軍司令部との両司令顧問なる日本人浅川某氏阿旗日本人の安否を気遣し日本人会に来訪し、内地引揚は当分見透しつかず、依って食料逼迫せるチチハルへ出る事は絶険なる故、食料豊富なる現地にて安心して稼動する様、内地引揚については責任を以て連絡を計る故くれぐれも軽挙せぬ様との注意あり。七月中旬内地引揚は三年後との情報あり、なんの希望もなく又越冬の準備に着手。八月二十日チチハル日僑遺送出本部より旗公署を通じ日本人会へ日本人引揚の命令あり。第一回八月二十七日、第二回九月六日の二回に亘りて旗公署ナチトン出発と確定。各方面連絡、出発準備。終戦当時の現住民の態度と愈々引揚準備中の日本人に対する態度は急しく変り、日本人と別れを情むもの相当ありし。又、旗公署員旗長以下親日の者多く、日本人出発に際しては二回公署会議室を開放し送別会場として白酒肴を提供し、日満蒙三国合同の涙熱会を催し、夜更けまで賑やかに最後の歓をし、日満小学校児童まで見送らせた。殊に旗長は早稲田の出身、公安局長はハルピンの中学の卒業者にして日本語は日本人と同じ様に話せた。予定通りチチハルに集合。九月十日一部先発隊と十二日の二回に出発。江北第六十二大隊第六中隊にて、経路はハルピン、長春、瀋陽、綿州、コロ島にて、引揚船雲仙丸にて博多着。現地出発以来実に四十五日。その間各地にて消毒検査のため一定の期間を滞在。順調に内地へ到着したのである。途中ハルピン到着前、第二松河江徒歩連絡中途船場にて一夜露営難問題の交渉ありたるもの金銭上作にて通過した。現地出発以来のボロ服は、チチハルにて幾分の程度の良い古服と交換してくれた。その外コロ島までの所要金として一人五百円支給された。これで車中の食料費にした。以上の如くにて引揚令受領と同時に各方面へ連絡を計りたるもの、本人の希望により残留せるもの、匪賊の集団地域内にて連絡不能のため別紙残留者のありし事は遺憾とす。若干の安全感あり。依って最後処置近期この時避難する第十二部落団員は、倉庫より放出した防寒衣類のみ。本部にては現金一万四千円を持って出るのみ。他には何もなし。八月三十日旗長命令にて各団備え付けの銃器弾薬返納までの警備上、開拓団は公署周辺へ集結すべしと命令あり。三十日夕刻より移動準備。午後九時整い移動開始。三十一日午後五時頃公署に最も近き天草開拓団地区に集結し、阿栄旗管内に九ケ開拓団二三〇〇人は一箇所にて共同警備に就く。九月一日旗長蒙古人巴音諾氏の好意により、避難応召急資金として九千三百円を我が団へ借付けの形式にて支給された。本部より持ち出した一万四千円と合計二万三千三百円が団員二三五人の今後の命の綱である。九月一日より天草開拓団の耕作せる食料を分配して露命を繋ぐと共に、何の希望もなく越冬準備をする。九月二日、ソ連兵公署接収に来り、開拓団査二名を借り略奪開始。時計、万年筆等を強要。ソ連兵の素質の悪旧人兵との事。九月二十日夜、武器を所持せる約五百名の大集団の匪襲を受け、衣類、馬車の大半を略奪したこの団群には満人警官も多数居た。我々団員は素手にて只々賊ならずままにするに築くなく匪襲にする。団員一名賊弾により死亡九月二十日頃、満州国解放委員会治自会成立し、日本人としては日本人会を設立し、旗公署との連絡機関ともなる。同日頃中国共産軍幹部王明貴チチハルに入場し、中国国民党満州支部に設立するため阿旗宣伝部長兼工作隊長と自称する元王明貴配下匪賊頭目劉某阿旗開拓団より資金寄付の強要あり故各団は現状を調べたるに、過日旗長より多額の資金を融せる筈にて困難は口実なりとの異言にて止めになり、九ヶ団にて金五千円を寄付せんとせし処、少額なりとて受領せず、そのままにて数日経過。十月十九日頃前記国民党の名を以って旗長を通じ、各団は入植以来満拓開拓総局より配給受領せしもの財産報告書を作成して十月二十三日午前十時迄に団長自ら報告せよ。報告と時間に相違ある時は団員の生命は保障せずとのかん達にて、資料は各団共に焼却したので正しいものなく、懸命の報告書を作成し、定時に日本人民会経由解放委員会より党支部提出せし如く、内容不審にて調査の必要あり。且又備付け銃器の返納の類量に相違あり。之が徴衣調査の要ありとて各団長九名日軍より逃避し来る数名と共に校徴し、日夜拘間し、一方工作隊長劉某は二十四日より武装せる部下百四十五騎の匪賊を引率し、共産中国を立て堂々と各団へ銃器捜査と衣料一時借用と称し略奪を開始。九ヶ団の端から端まで、天上


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