満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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目次写真富貴原郷現地略図富貴原開拓団実態調査附(残留者名簿)序県会議員清水重幸先生目次満州開拓の思い出氏名満州の思い出植田正子開拓の思い出浦野しげみ北満を思う桐原しなの満州時代を偲んで倉田作子(旧姓小川)満州の思い出原健満州開拓の思い出唐沢孝子満州の思い出宮下泰之満州での思い出松澤政文入植抑留生活帰国迄の記録向山一雄満州開拓とシベリヤ抑留生活平松俊彦富貴原開拓団安藤國男思い出される中国青年小笠原吉治うた日記抄田中みのる思い出岡石子思い出倉田三郎五月七日夕方入白へ着く白鳥富美子(旧姓市川)記憶をたどって山崎正一満州に賭けた青春伊澤清一三十七年前の思ひ出体験記松井勝彦(旧姓宮下)あとがき※写真・地図は省略甲満州開拓団実態調査1.団名富貴原開拓団2.入植年月日第十一次昭和十七年四月一日3.位置興安東省(現黒龍江省)阿栄旗太平溝札蘭屯駅八十粁斉々哈爾一六〇粁4.編成上伊那郡北部十ヶ町村の送出母体南箕輪、西箕輪、川島、小野、中箕輪、伊那町、東春近、箕輪、東箕輪、朝日5.組織農五二、商八、大工五、教員一、産婆一、理髪二、屋根織一乙終戦直前1.団長村上顕四十九才、農事指導員北沢正吉二十八才、警備指導員田中二一五十才、経理指導員林英生、学校長桐原長人三十二才、保健指導員山下静雄三十五才、団長代理白鳥儀八郎五十七才2.戸数、人口一〇五戸、二六五名大工五、桶屋一、産婆一3.区内満鮮戸数人口満人七〇戸、鮮人なし4.衛生状況良好にて伝染病としてチブス一名ありしのみ5.警備状況日本人開拓入植前は匪賊の(ソオクツ)にて入植後日軍の手にて圧たるものにして日本人に対する反感強く、現中共軍(満州)の領袖王明貴の出生地はチチハル付近を聞く、その外馬占山の名望も此の付近にて相当好きものあり。以上の如くにて終戦直前日軍の戦況不振となるや原住民の態度硬化し、日夜不眠警備。武器筒奪式歩兵銃二十五挺、弾薬三七五〇発。表面上は好き様なれども前記の如くにて何となく親しみ難きものあり。6.応召入隊者五十四名丙八月十五日の状況より八月十五日旗公署兵事員より令領者チチハル召集部隊出発せる。応召者十一名、午後五時頃途中甘南鎮付近にて終戦の報を聞き十六日出発。一時旗公署へ引き返し、兵事員に信疑の処置を問ふ。宿直員曰く、今尚確報なし(デマナラン)、日本軍人にして応召途中責任なき言ふ聞き行動を採る如き軍隊教育はなき苦なれど即刻チチハルに急行し部隊責任者の指示に従う様にと敢命あるにより、十六日夜明けを待ち、満馬車を従て再出発。十七日夕刻部隊へ到着せし処、部隊は既に解し、ソ連兵入斉間際にして日本人の行動は危険なりし、満人に変装し自から豪雨ものともせず懸命の努力にて十九日午前二時頃健脚者は帰団し、無条件降伏を知り、団員一同涙を呑む。続いて午前五時頃関東軍司令官命令参事官室経由にて受領す、命令伝文「開拓団は現場を維持せよ」の如くにて降伏は確実となり、この時を以て阿旗在住の日本人参事官以下約三千人は孤立となり、満人の態度急変し、何れの方面へも避難の途は閉された。八月二十日午前六時頃、親日の


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