満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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ルの八路軍司令部と扎蘭屯蒙古軍司令部の両者の顧問をしていた日本人浅川某が、日本人の安否を気遣って来訪し、「内地引き揚げの目途はまだ立っていないので、食糧の豊富にあるここで待機しなさい。チチハルは食糧が逼迫して、生きるのには大変だ。私が責任をもって引き揚げの連絡はとるから。」と励まされた。八月二十日、チチハルの日僑還送本部から、日本人引き揚げの命令があり、第一回八月二十七日、第二回九月六日の二回に分けて、旗公署出発が確定した。この頃には中国人も終戦当時とはうって変って別れを惜しみ、親切にしてくれた。現地出発に際しては、最初から親日的だった旗長や旗公署員をはじめ大勢の人達が、二回にわたって、旗公署の会議室を開放して送別会を開き、白酒、肴を提供して、日・満・蒙の民族が、合同演芸会を催し、夜遅くまで賑やかに最後の歓談をした。出発当日は、小学校の児童まで出て見送った。旗長は早稲田大学の出身、公安局長はハルピン中学の卒業者で、日本語は達者だったから、別れのあいさつでは、有難さに居合わせた者は、思わず涙を催したほどであった。予定通りチチハルに集合、先発隊は九月十日、続いて十二日と、江北第六十二大隊第六中隊に編成されて、ハルピン、長春、瀋陽、錦川を経て、胡蘆島から、引揚船雲仙丸で、十月二十七日には博多に上陸した。出発以来、実に四五日、なお、この間各地で検疫、消毒のため相当期間の滞在を余儀なくされはしたが、その他には、ハルピン到着の直前、第二松花江徒歩連絡の際に、困った問題が起きた他は、道中は無事であった。その問題は、どさくさの中で自分が生き延びる手段として、人身売買をした者があり、中国人が強引に引きとめて放さないというのを、ある者は金で解決したというようなことであった。帰る時、チチハルで、終戦当時から身に着けていたボロ服を中古品と取り替えてもらった上に、胡蘆島までの所要金として、一人五〇〇円が支給された。白鳥儀八郎は受難の手記で「誠に遺憾なことは終戦直後のどさくさの中で、七〇余人の死亡者を出し、肉親の死んだ地に留まる事を決意した七人と、連絡不能のため残留者の十余人を出した事であった。」と結んでいる。この団は、終戦時の在籍者二八九人の内、三四人の応召者を含め、一九一人が帰国し、死亡者八四人、残留者は一四人であった。自立と更正日中友好の絆強かれと祈りつつ基幹先遣隊として、入植後は、時に農事指導員を務めていた岡正が手記の中で次のように書いていた。上伊那郡町村長会が、どのようにして分郷計画を立てたかは、我々の知るところではない。しかし、あの頃は分村が華々しく脚光を浴びて、農村更正の対策として宣伝された頃とは全く一変して、国のためだ、日本の生命線を守るためだ、国策だから行ってくれと、無理に押し出した開拓民であった。国を思い郷土を愛し、国策に沿って先んじた己が、青春をなげうち。自らを苦難の中に追いやって、支那事変に三か年、開拓団に五か年、シベリヤに抑留された三か年、身も心もぼろぼろになった。それでもここまで這い上がって来たが、こんな馬鹿者がどこにいるだろうか。自分のことはどうでも諦めがつく。しかし、死んだ人や、年とって世間が何といっても訴えの出来ない人を思うとたまらない。軍人なら戦地加算もついて恩給にもなる。復員しても大手を振って歩けた。それなのに国策だから平和の戦士として行ってくれと、さんざん奨めたはずなのに、裸になって、いや、妻を残し、子を失い、仲間を死なして、切なく復員した開拓民は、悪い事でもしてきたかのようにさげすまれ、生命を削ってシベリヤに抑留されたその間の加算どころか、日当もない。俺は何か書けと言われたが、どうしても筆が進まなかった。しかし、誰かが訴えなければいけない。あの悲惨な開拓の歴史を、また、国や送出の責任者のとってきた実際を後々の世に伝えて、平和への願いを果たさねばならない。そう考えてペンをとった。この団も年配の人が多かったから、昭和二十一年十月末には、引き揚げた者もかなりいたし、二十三年十月には、シベリヤ抑留の仲間もほとんど復員したが、二~三の者が内地開拓に参加しただけで、各人思い思いに身寄りを頼って再起の道を歩いていた。昭和三十年頃に村上団長が中心となって、団の同志会も結成し、開拓自興会長野県支部の諸事業や行事にも協力してきた。しかし、生きるに精一杯の時期には、ただ戦争が憎く、また、敗戦後の混乱の中での苦しみだけが頭にこびりついて、仲間がよるとその話題で持ちきりであった。ようやく足場も固まり、慰霊の行事も回を重ねるにつれて、生涯拭い去ることのできない戦争への憎しみは、それは誰がしでかしたのか、仲間はなぜ非業の最後を遂げたのか、殺したのは、それは中国人ではなく紛れもなく日本帝国主義者であったということを知った。中国残留者との交流待望の日中両国の国交が正常化されると、昭和四十九年には中国残留者の里帰りも始まり、各団では現地墓参、友好訪中も進められている。こうした中で、向山一雄(大正五・九・一生まれ、中箕輪村)や植田正子(大正八・一二・二八生まれ、南箕輪村)、岡石子(大正一一・四・二四生まれ、中箕輪村)らの現地残留や一時帰国者は、苦しかった思い出を綴っているが、また、中国での楽しい正月風景や人間愛など、中国で温かく見守ってくれた中国人のことなども語りながら、この団の仲間も近く訪中する、その日を待ち焦がれながら、日中友好こそ、永久に中国の土に眠る故人への最上の慰めであり、生きている仲間の務めだと同志会では決意し、残留者との交流を重ねている。付記元団基幹先遣隊長で農事指導員岡正(大正五・一・一生まれ、上伊那郡中箕輪村)が昭和五七・三・一調査記述したものによるが、他に元副団長の白鳥儀八郎の遺稿と元団員・家族の、小笠原吉治・松沢政文・宮下泰之・向山一雄・植田正子・岡石子・浦野しげみらの手記を参考とした。


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