満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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機に旗長のはからいで、最も旗公署に近い天草開拓団地区に、阿栄旗管内九個開拓団の二三〇〇人が集結した。九月一日旗長(蒙古人、巴音諾)の好意で、避難応急資金として、九三〇〇円が貸付の形式で、団に支給された。団は本部脱出の際一万四〇〇〇円を持っていたので、この二万三三〇〇円で全団員二五五人の命を支えることになった。昭和二十年四月、団長の命により、公主嶺国立農事試験場に、酪農指導員講習生として入所した小笠原吉治(大正七・一〇・二五生まれ、東春近村)は、玉砕寸前の模様を次のように書いている。七月はじめに、関東軍総司令官の山田乙三大将が試験場へやって来た。その時、私は乳牛の説明を申し上げた。十日程して仲良しの張(試験場に近い部落に住み、工場で働いていた中国人)から遊びに来るように誘われて彼の家へ行った。張はそこで、「自分は明朝徴用令で家を出るが、どうしてもこの事を知らせたいから呼んだのだ。」と前置きして、「八月になればソ連が攻め込んでくる。日本は必ず敗れるのだ。中国人はその時のお祝いの準備を、こっそりやっている。」と教えてくれたが、とても信じられなかった。しかし、山田大将は、何のために試験場になんか来たのか、胸騒ぎはおさまらず、酒を酌み交わして別れた。それから数日して、「団からどんどん応召で男衆が出征し、老人や女子供ばかりになって不安だ」という手紙が妻から届いた。俺は張の話が気になって、退所を決意し、万一を考えて毒薬を持って帰団した。それから二十日程して、まさかと思っていたその毒薬を女子供に配ったのだ。男共が戦って、最後の時に、合図をしたら飲むようにと。忘れられない。部落の大和神社の前であった。その時、合図のあるまでは絶対飲んではいけないと強く言い渡した。その毒薬は飲まずに済んだけれども、引揚げまでの、あと一年余りの苦難の中で、俺達は中国人にも襲撃された。病と飢えとも闘った。しかし、開拓民が本当にいじめられたのは、襲撃して来たり、物資を略奪した中国人ではなくて、関東軍の非道のやり口であり、同胞の、しかも軍のために忠実に働いた開拓民をペテンにかけて、大きい犠牲をしいた、日本軍閥の憎むべき行動にあった事を痛く知らされた。波乱万丈、引揚げまでの一年間大和部落の人達は、雇いなれていた中国人の金次郎に騙されて、裏山へ逃げ込んでいる間に、目ぼしい物はみんな、お金まで中国人に盗られてしまった。昭和二十年八月十九日のことである。二十日には伊南開拓団へ集結することになり、老人・子供を馬車に乗せて部落を出た。伊南開拓団にやっとたどり着いたその晩に、馬や大車は盗まれてしまった。数日経って武器の没収が行われ、月末には天草開拓団に集結した。その途中、威嚇射撃が聞こえ、槍を持った中国人の姿も見えたが、人命には別状がなかった。九月以降は天草開拓団の耕作した食糧を分けてもらって露命をつないだ。九月二日、ソ連兵が旗公署接収に来て、略奪を思いのままにし、なお、各人の時計・万年筆を強要して持ち去った。九月二十日夜、約五〇〇人の暴徒の襲撃を受けて、残っていた大車・馬・衣類等の大半を略奪された。この集団には中国人の警察官も大勢加わっており、完全武装をしていたので、どうする術もなく、みんな闇に紛れて、もろこし畑に難を逃れたが、団員一人が敵弾に倒れた。この頃、満州国解放委員会、治安自治会が設立され、日本人民会も出来た。また、国民政府幹部王明貴がチチハルに入城したときであった。この王の配下で匪賊の頭目劉某(阿栄旗宣伝部長兼工作隊長と名乗っていた)が、中国国民党満州支部設立の資金と称して、開拓団へ寄附を強要してきた。団長代理の白鳥儀八郎が、団の実状は寝る布団もなく、草を刈ってきて寝具に代え、食糧に事欠く毎日である、と訴えたが、旗長より先に大金が渡されているはずだといって、聞き入れなかった。やむなく九個団の首脳陣が相談して五〇〇〇円の寄附を申し出たが、少額だといって受領を拒否した。それから一ヶ月程して、十月十九日には、前記の劉某の名で旗長を通じて、各団の入植以来満州拓殖公社や開拓総局から受領した金品の財産報告書を、十月二十三日午前十時までに提出せよと命令してきた。各団とも資料などあるはずがない。四苦八苦何とか作成して提出したが、不審の点があるといって、各団の代表者九人と、元日本兵数人を投獄し、日夜拷問取調べをした。一方劉某は二十四日から、武装した部下一五〇騎ほどを引率して、中国共産党の旗を立て、堂々と各団への銃器の捜索と、衣料品の一時借用のためと称してやって来て、幼児のおむつ、茶碗まで一物もあまさず屋外に集積し、夜陰に乗じて服装を変え、暴徒の仕業と見せかけて略奪し、拒む者は容赦なく銃殺した。三十日までの十日間続いたこの略奪で、団からは、死者五人、負傷者三人を出した。各団とも無一物になったところで、十一月三日、入獄者は解放された。この後も十二月に入るまで、四騎から十騎くらいで何回も襲って来ては、着物などを剥ぎ取って行った。十二月上旬、正規の八路軍(共産軍)が入って来た時、劉某一味の者はどこかへ姿を消してしまった。やっと治安は良くなったが、厳しい寒気の中では、越冬の見通しも立たず、団員の総意によって、生き延びるためには、一時分散して中国人の手にすがるよりほかないということになった。この頃から、乳幼児・老人の栄養失調で死ぬ者が出てきた。八路軍が駐屯して、「日本人を保護せよ。」という声が次第に高まり、宗教団体の万国道徳会阿栄旗支部も、王会長が先頭に立って救援活動に乗り出した。旗の日本人民会を中心に八〇キロメートルの間に分散し、働ける者は中国人の家で働き、各人各様に生きる道を求めて正月を迎えたが、十二月十六日まで団が持っていた金と、旗長から支給された金の合わせて二万三三〇〇円で、一人一日、生搗き粟五合と馬鈴薯一三〇匁を、朝晩二回に分けて飢えを凌ぎ、ここで有金はみんな使い果たした。その後は中国人と全く同じ物を食べさせてもらったが、着るものは団を出た時のままであったから、虱【しらみ】にとりつかれて、発疹チフスに罹【かか】り、また、その痒【かゆ】いのにも苦しめられた。終戦以来、チチハル以南との交通は全く途絶えていたが、二十一年五月中頃、チチハ


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