満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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三頭引リージャンにてウネ立て作業〔向山ひろ子氏提供〕開拓団の終末開拓団を見捨てた非道な軍部この団に初の召集令状が下ったのは、昭和十九年三月半ばであった。そのあと年内に二度ほどあり、数人応召した。しかし、誰も気には留めなかった。二十年には五月と七月に大動員があり、ついに団長をはじめ二八人が召集された。二十年八月十五日、すでに内地では終戦が知らされていた。この日、一五ヘクタールの収穫を前に全員農休みで、川へ街へと出かけ、目的地に着いたところであった。旗公署兵事員から、兵役にある者全員一一人に召集令状が来た。本部から早馬の連絡を受けて、入隊地チチハルに向かった一行は途中、この日の午後五時頃、甘南県の県公署付近で終戦の報を聞いた。急遽引き返して、十六日午前一時、旗公署で担当者に真偽と処置を尋ねたが、それはデマだと叱責されて、再びチチハルに向かい、十七日夕刻部隊に到着した。しかし、ここには人影もなく、ソ連軍のチチハル入りは一両日の間といわれていた。日本人の行動は極めて危険とのことだったので、中国人に変装をして、しのつく雨の中を、足の強い者が帰団したのは、十九日の午前三時であった。その直後午前五時頃関東軍司令官命令、参事官室経由で、「開拓団は現場を維持せよ。」という命令電報が入った。詳しいことは不明だが、その日から中国人の態度が急変した。阿栄旗在住の日本人の、参事官以下三千余人は時すでに遅く、脱出の道は鎖されていた。翌二十日朝六時頃、親日中国人から、団の南方約二五キロメートルの大阪・玖摩川の両開拓団は、昨夜暴徒の襲撃を受け、多数の死傷者を出した、という情報が伝えられた。直ちに第一部落の全員本部集合を指示したが、約三〇〇人の暴民に包囲され、家財道具・寝具衣類を放置し、着の身着のままで、辛うじて逃げ出してきた。かれらは家財一切を略奪すると、全戸に火を放ち、なお、本部襲撃の姿勢を示していた。本部では、旗公署に急報して救援を求め、同時に伊南開拓団へも応援を要請した。危機の切迫する中で、団は午後二時頃、最後の処置をとり、日本人の名を汚すまいと、婦女子には毒薬を配布し、重要書類を焼却して、全員第三部落へ避難した。暴徒は本部と本部部落の略奪をはじめ、四時頃からは、救援を得て反撃に出た団側との激しい攻防戦をくりひろげた。だが、多勢に無勢、一進一退のまま夜に入った。この時の救援隊の主力は蒙古人であった。人命重視で徹夜警戒に当り、第二部落へ避難のため引揚げをしてから、二十一日早朝、救援隊に護衛を頼み、本部倉庫の状況調査を行ったところ、倉庫に満積の物資は勿論搬出されて跡形もなく、倉庫も焼き払われて、まだ煙がくすぶっていた。昨夕の戦闘で当方には死傷者がなかったが、暴民一一人を射殺していた。事態収拾の道もなく、旗長より各団ごとの救援は不可能のため、各開拓団は合流するように、との勧告があり、同時に各屯長に布告して、日本人襲撃を厳禁した。このことを知って団の最後処置は延期した。八月三十日、旗長の命令によって、銃器弾薬を返納することとなった。これを


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