満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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開拓団の概要入植地区の概況入植地は、興安東省阿栄旗太平溝地区で、阿栄旗の最東南部、布【プ】特【ト】哈【ハ】旗と浜江省甘南県との県境にも近く、北緯四八度二分、東経一二三度四分に位していた。大興安嶺の末端丘陵地帯が西方につらなり、北西から南東に流れる阿倫【アロン】河を西境とした広大な平坦地域であった。地区内には小川が幾筋も流れ、湿地と沼地が多かった。東隣りには天草開拓団、南西には大阪・北海道の開拓団や実習農場が入植しており、北西には伊南開拓団、北隣りには高北開拓団が入植して、周りじゅうに開拓団が入っていた。土質は砂質腐植土で、表土は浅かったが地味は肥沃であった。交通は浜州線の扎蘭屯【ジャラントン】駅から東北方へ八〇キロメートル、旗公署のある那吉屯【ナチトン】までは二〇キロメートル、那吉屯から甘南街道へ出て、チチハルへは一六〇キロメートル離れていた。地区には、開拓道路は入っていたが、バスはなく、馬車が唯一の交通機関であった。地区内には中国人の部落が四つと蒙古人の部落もあった。入植当時の治安は良好であったが、以前は匪賊(日本軍に反抗するものはすべて匪賊と呼んでいた)の巣窟といわれた地区であった。表向きは人ずきも良かったが、日本人に対する反感は強く根に持っていて親しみがたかった。警備用として套筒式歩兵銃二五丁と、弾薬三七五〇発を持っていたが、終戦までの間に、使用したのはノロ(※シカ科)狩りのときだけであった。たった十人で建設に挑む幹部・団員あわせてたった十人の入植であったが、満州拓殖公社の設営が行き届いていて、入植したときは、すでに中国人の家屋を買収して、宿舎も倉庫も間に合っていた。もちろん燃料の薪も食料も鍋釜の什器まで揃っていた。それだけでなく、農地も中国人の作っていた熟地を買い上げてあって、凍土がゆるみ出すとすぐに農耕ができた。耕作地をとり上げられた中国人は、わずかではあったが、団の建設がすすむにつれて、自作地を失ったので他地区に代替地を見つけて、そこへ移動していった。幹部は毎日外部との折衝や段取りのために出張していたので、当分の間、畑に出て作業するのは四人ぐらいであった。農耕は中国人を三人雇って手ほどきをしてもらい、在来の方法によって作業をはじめた。六月に入ると位置を選定して、二か所に部落を作ることにし、満拓の手配した中国人に請負わせて、一棟二戸建ての在来方式による個人家屋五〇戸と、井戸を掘り、共同炊事場・共同浴場の付属施設の建設もすすめた。農地は見たところ、やせ地でろくなものもできないと思っていたが、作物の生育も順調で、驚くほどの収穫があった。昭和十七年八月十八日、母村では団員の送出が進まない、その埋め合わせとして勤労奉仕隊十数人が送り込まれた。隊員は大・小麦の収穫が終るまで作業を応援して大助かりであった。奉仕隊が九月帰って現地を紹介したのが効を奏したのか、十月になると本隊員が入りはじめた。秋の取入れが終ると十一月末頃には家族招致も始まった。心配された本隊の充足もどうやら見通しがつくようになったので、十八年にはトラックを購入して輸送にあてた。五月にはこの年もまた奉仕隊が応援に来た。しかし、この頃には食糧の配給も厳しくなってきており、奉仕隊の分は配給量に入っていないため食糧確保がたいへんで、主に高粱・粟・包米・大豆などの雑穀に、なお、馬鈴薯・野菜を混入するようになった。家族の中に不平不満も出て、共同炊事がやりにくくなり、団長の出張留守中に個人炊事に切り替えてしまった。夏になってから第三部落と第四部落の建設がはじまり、中国人労働者の出入りも多くなって、活気が出てきた。この頃送出本部のとりはからいで、富士見分村から、桐原長人(朝日村出身)を校長として迎え、児童数はわずかな人数であったが、在満国民学校を開校した。校舎は入植当時の部落の建物を利用して内部を改造し、寺子屋式の授業であった。三年目の昭和十九年には、農業生産を高めるために北海道の実験農家が方々の団に配属されて、プラオ農法に切り替えるようになった。団では、これを見習って実験農家として岡正を選び、八ヘクタールの耕作を試みた。前年に軍払い下げの日本馬が導入されていたのでこの試験は大成功で、一戸で八ヘクタールを耕作し省力栽培で、しかも見事な収穫があった。入植三年で食糧は自給自足の域を越え、三分の一は供出にまわした。十一月には部落ごとの出荷も始まって、この頃からはやっと大陸農業の醍醐味が出てきて、食事も良くなった。個人経営に移行する日も間近くなって、みな張り切っており、冬には七〇キロメートルも離れた遠くの山へ薪とりに出かけた。燃料が貴重で、おまけに近くの山は丸坊主に乱伐されていたから、薪は高値で売れ、百や二百の金を手にするのは雑作もなかった粟稈【あわわら】が粟の実と同値で取り引されていた。十九年四月、その頃は禁じられていた野焼きで、中国人の出した火が燃え広がり、丘から湿地帯を幾晩も燃え続けたあと、強風にあおられて、あっという間に宗平部落をなめつくし、家の中のものは勿論、牛馬も豚もみんな焼き殺されてしまった。辛うじて人身事故はなかったが、損失は大きかった。一方、農産物価格が順調で、現金収入の道も容易だったから、この年もまた一部落を増設、二〇年からの一斉に個人経営を目指して、みんな張り切っていた。一番金もうけに役立ったのは肉豚で、一頭が二〇〇円になった。その頃飛行機で日本まで飛んでも、豚を一頭売れば、まだおつりがきた。部落も昭和二十年四月には、本部を入れると六部落となり、九七戸、二九六人が、瑞穂・花岡・大和・宗平・旭と名付けたそれぞれの部落に落ち着いた。ここをわが第二の故郷と部落長を中心に、将来の夢を膨らませていた。十九年からは診療所も開設して山下静雄も保健指導員として活躍し、学校も児童数が二十余人に増えて先生も四人となり、子供たちの歌声も明るく、王道楽土は目睫【もくしょう】の間にあった。


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